2013年11月7日木曜日

(二)何故、靖国神社や阿弥陀仏を信仰の対象にして拝んではいけないのか?

▼どんな宗教が出てきたのか?

人間の内面にある煩悩を消滅させることで、精神の平静を実現するためにはその煩悩を切り取って捨てれば問題は解消するとして一切の煩悩を絶つという修行を求める誤った人間解釈の宗教がでてくる。そこでは悟りの境地とはこの煩悩を断ち切ることを指すようになるわけだ。しかし本当の仏教によるとこの煩悩こそが活力になるとして積極的にその存在を認めるのである。煩悩の暗闇を断ち切ることではなくて、むしろこれを障碍(しょうげ)としてをまず正面から認め、それを回避するのではなくて、その事実を因果の法理から新たに光をあてることだ。例えばそれを薪の山として捉える。

これを焼くことで自らの闇を照らす慧火(えか)になるとしている。障碍の薪の転換はこの生命の因果によって現世と来世の両方において、またひょっとして過去をも変換することが保証されることになる。それでは薪がわれわれに存在することはわかったが、それを慧火に転じる方法はどうすることなのかという問題がのこるが、これは後に話すことになる。

本物の仏教では、人生の障害や困難、病気、欲望、悩みや煩悩というものを捨象したり遠ざけたり滅したりする必要がないということだ。悪も悪で終わらないし、善も善で永遠に常住であるわけではない。善悪が互いに相即して離れることがない思想であるからこそ、そこに転換の可能性がある。悪が善になる可能性とはその悪の中に善があり、善の中に悪が存在してなければならないからだ。



▼創価学会や念仏阿弥陀や神道は因果律を理解した宗教なのか?

ところがキリスト教や誤った認識の仏教などでもそうだが、天国と地獄とが永遠に乖離している二元論の宗教では悪の転換は不可能なのだ。そこでは、悪は別世界に追いやるか、隠すか、創価学会の戸田城聖氏が言ったように、サタンは死刑にせよということになってくる。そこには生命の因果律を無視した考え方があるとしか考えられない。これは仏教をキリスト教的に思考して、原爆を使用した者はサタンとして捉え、すべて例外無しに死刑にせよとの宣言を創価学会の青年部員へ遺訓として残したといわれている。

そこが仏教以外のキリスト教や新道もそうだが因果律を隠す阿弥陀如来の念仏信仰などと、本来の正しい仏教との決定的に異なるところなのだ。善悪の二元論の宗教を推し進めると、一方が一方を抹殺する聖戦の戦いしかない。そういう悲劇的な誤った世界認識を是正する仏教の正しい変革理論が必要である。


▼神国日本の宗教と社会

具体的には日本の天皇と将軍という社会構造での関係が、宗教世界の神道と仏教との規定関係にどう連動して関係していたのかという問題である。つまり宗教と社会・政治との関係の問題でもあるわけだ。具体的には、つまり八幡大菩薩という神が百代の天皇を守護するとの宣託があったのに、その誓いもむなしく玉体安穏の祈りも適わずに、何故にいとも簡単に安徳、壱岐、阿波、佐渡の4代の天皇は殺されたり流罪されたりして海中の藻屑と消えてしまったのかという疑問を日蓮大聖人という方が鎌倉時代に立てられている。

最近のことで言えば、神国日本の神が祭られているはずの神社などに祈ればその恩恵に浴せるはずなのに、それがそうではなくて逆に、靖国などに詣でた何人かの首相が簡単にやめなければならなくなる。そこに何か因果関係みたいなものがあるのではないかということなのだ。これが一つあり、他方には神である靖国を拝まなくても創価学会などの仏教政党を祈る場合にも首相が同様に、つまり国の頸が容易に切れるのは何故なのかという問題へと展開することになる。(つづく)