2014年1月27日月曜日

色川大吉「歴史家の嘘と夢」を読む 天皇制をファシズムへと一人歩きさせないために

色川大吉「歴史家の嘘と夢」(朝日選書 8 1974年)
日本の共同体の神を仏教の体系の中に捉え直し、天皇の先祖の天照大神も仏教の機能神として位置づけすることが必要だ。これが天皇制をファシズムへと一人歩きさせない方法である。

色川大吉「歴史家の嘘と夢」(朝日選書 8 1974年)はそんなに新しい本ではないがここで書かれた色川氏の構想や考えは、今もそんなに変わってないのではないかと想像する。最近の著書を読んでないのでわからないが、この本で取り扱った問題があまりにも大きく難しいのでそう簡単には仕事がかたづいているとは思えないからだ。その難問とは日本の共同体の特異性だ。そこに天皇制が人心糾合の機関としてしかも大衆の心を今もなお支配し続けているという問題。そしれこれを切り返す手立てを一刻も早く見出してゆかなければ再度、日本がファシズムの荒らしに見舞われるという可能性を警鐘した。

その忍び寄る再度の日本軍国主義の裏に大資本や官僚主義のシステムが誤れる情報で操作し民権運動のベクトル自体に自誤撞着を突きつけて、反批判と内部崩壊を画策してくるという。個人ということを意識させず共同体に吸収してしまう仕掛けの天皇制、もしくは天皇制に代わる新たな支配思想をつくり直してくるという。この認識は、民衆基盤からの共同体研究という色川氏の反権力の視覚である。その後、私は日本を離れた。同氏の思想の遍歴は現在どういうところにあるのかはわからない。


少し長くなるが重要な箇所と思えるので本書(180-181頁)から引用して以下に論じたい。

「一つの国や社会がその対立や不和を統一してゆくことは容易でない。そこでそれぞれの時代の支配層は、その社会に、あたかも身分のちがいや階級対立をこえた共通の利害があるかのような観念や幻想をふりまかなければならない。また、国家こそが、その社会全体、全住民の利害の公平な調整者、正義の遂行者であるかのようなポーズをとりつづけなければならない。そうしなければ、社会の全メンバーの納得はえられないし、忠誠心もひきだしえない。支配層は国民全体の自発性をひきだすことに失敗し、国民から孤立するであろう。

つまり、そうした共同の「嘘」を信じあう共同幻想こそが支配を可能にする本質であり、それは常に特定の支配思想で色あげされた「国家幻想」によって保たれてきたことを歴史は教えている」(…)

「明治維新によって徳川幕藩体制が倒されると、その社会の支配思想もとりかえられざるをえない。明治政府は、まず「五箇条ノ誓文」を発して進歩的な姿勢をしめし、そのあと朱子学に代わる新しい教義を求めて試行錯誤した。その結果として生まれたのが天皇制思想と言われる国体思想、一種の神権的な選民思想であった。その選民思想を歴史的に証明する歴史観が、いわゆる皇国史観であろう

そうすると、その選民思想―たとえばユダヤ人が自分たちを神に選ばれた特別な民族であると信ずるように、日本人というのは天照大神の直系を現人神としていただく特別な民族である、と意味づける。しかしそれを政府公認の思想として宣伝するだけでは効果が少ないので、公教育を通して、国民のなかに、徹底的に注ぎ込んできた。この戦前の教育が、日本軍国主義の成立の前提になったのである」


上の引用部の中で、「その結果として生まれたのが天皇制思想と言われる国体思想、一種の神権的な選民思想であった。」(181頁)と、ここで「一種神権的な選民思想」といっている。しかも明治政府が支配思想として徳川幕府の朱子学に代わってつくったといっている。しかし色川氏も指摘しているように、その選民とは日本人を、「天照大神の直系を現人神としていただく特別な民族である、と意味づける」(181頁)ことだとした。この神として意味ずけるのが近代天皇制の特徴だろう。

日本国の地上の神の先祖には、八幡大菩薩や天照大神がいたという神話をそしれそれは仏教の中の教えにあったとうことを隠したのが支配思想としての皇国史観であったと思うのだ。だからその先祖は何処から来たのかを隠さずに明かす必要があった。これを明かすことによって天皇は拝む対象の現人神ではないことが理解されたからだ。

しかし、「天照大神の直系を現人神」というのは人王第一代の神武天皇のことで、その先祖に当たる天照大神や八幡大菩薩は神話なのである。そしてこの神話は、「明治政府がつくった」わけではなく前から存在していたものを新たに利用したのだとおもえる。

第三十代欽明天皇の時に日本国が治めていた百済の国から聖明王という国王が年貢を日本国に持ってくるついでに金銅の釈迦仏と一切経・法師・尼等を連れてきた。この時に天皇は大変に喜ん西蕃の仏を崇めようとした。その時に賛成した大臣グループと反対した大臣グループとが対立した。前者が曽我氏で後者が物部氏である。

前者は「西蕃の諸国みな此を礼す、とよあきやまとあに独り背かんや」と賛成したが、後者は「我が国家天下に君たるは、つねに天地;しゃそく(社稷)・百八十神を春夏秋冬にさいはい(祭拝)するを事とす」「西蕃の神を拝めばをそらくは我が国の神いかりをなさん」(四条金吾殿御返事 日蓮大聖人御書 大石寺版 平成新編1175頁)と反対したことが書かれている。

此れに対し「天皇はわかちがたくして」(同1175頁)蘇我だけに拝ませて他には許さないことを勅宣した。これを蘇我は喜んで此の釈迦仏を自分の住居に安置する。ところが物部はこれに怒って此の仏を失くすように催促・進言し、「早く他国の仏法を棄つべし」(同1176頁)との勅宣がでる。物部はそれを盾に仏殿を焼き払い破壊し僧尼を懲らしめた。その時に空に雲もないのに大風ふいて雨降り内裏が空を焦がして焼け上がった。物部は死んで、蘇我と天皇はやっとのことで死を遁れた。そういうことがあったが仏法を用いることなくその後19年が過ぎた。

第三十一代の敏達天皇の時代にも同様な争いがあった。仏法を興隆させようとする蘇我の馬子と、「他国の神を礼す」(1176頁)ことに反対する物部の子の弓削の守屋との間でも戦いが起こっている。ここでも又、守屋たちは寺の堂塔を壊し仏像を焼き僧尼の袈裟を剥ぎ取って鞭をくわえて責めた。その時に天皇も守屋も馬子も疫病になった。

第三十一代の敏達天皇の子が第三十二代用明天皇でその用明の子供が聖徳太子である。用明天皇は「三宝に帰せんと欲す」(1177頁)と勅宣したために。蘇我は天皇の言葉に随うべしとして内裏に法師を引き入れた。これを物部は怒り「天皇を厭魅す」(1178頁)と言った。用明天皇は死んでしまう。この物部側と馬子・聖徳太子連合軍が戦う。物部は「我が先祖崇重の府都の大明神」を唱えたが、聖徳太子と馬子は「百済より渡すところの釈迦仏を寺を立てゝ崇重すべし」(1177頁)として両陣営が合戦になっている。この合戦は用明が崩御し第三十三代崇峻天皇が即位する前に起こったものだ。

第三十代欽明天皇の皇子で、聖徳太子の伯父でもあるの第三十三代崇峻天皇は人に殺された天皇だ。太子はこの伯父の目に赤い筋の入っていることから殺害されることを相していた。この時代に聖徳太子は四天王寺を建立し、馬子は元興寺という寺を建立している。

これら三人の天皇並びに物部も共に疫病になったのは釈迦如来の敵つまり仏法の敵になったからであるという。

物部は日本の先祖神を拝んでいて、外来の仏教を受け入れる蘇我氏と対立していたわけで、先祖崇重の祖先神とは仏法で言う所の天照大神や八幡大菩薩のことである。つまり神武天皇の祖先の天神・地神のことである。天皇の神観思想は仏教の受容の中で位置づけすることで仏教の機能神として天照大神や八幡大菩薩の末裔として神話的に存在したのであり、天皇は神でもなく拝む尊敬の対象ではないことが理解されるだろう。これを拝めば世界を逆さまに尊厳することになるために、世界がまさしく転倒する事件が起きるのはそのためなのである。

【参考記事】
竜女の成仏は法華経にあり 天皇の先祖は竜女なので 神でなく仏法を拝むべき

(二)何故、靖国神社や阿弥陀仏を信仰の対象にして拝んではいけないのか?