2016年3月15日火曜日

牧口常三郎は教育者だが その著「価値論」に中性子(ニュートロン)の話があり驚いた

Ⅰ)中性子(ニュートロン)と牧口常三郎




「価値論」《昭和28年(1953年)
11月18日
 東京 創価学会発行 信濃町》


牧口常三郎という人の本に「価値論」というのがある。

戸田城聖が【校訂増補】して昭和28年(1953年)11月18日発行の創価学会版として出した「価値論」には牧口のオリジナル版があった。その牧口常三郎の原著「価値論」は昭和6年(1931年)2月以前の出版だと言える。【正確な発行日や出版社は不明】なのはこの戸田の「価値論」に明快な断り書きの説明がないからだ。およそ22年の歳月を経て、【校訂増補】版が出てのである。

牧口は教育者であったがこの「価値論」《昭和28年(1953年)11月18日 東京 創価学会発行 信濃町》の中には、「原子核の分裂」とか「原子爆弾」(上掲書、 170 頁)。また中性子(ニュートロン)の話し「窒素の原子核に二個の中性子と二個の陽子を入れる時には重酸素に変化すると云う様な事は、科学を知らぬ者には、窒素が酸素に化けたと思う以外になく、これは嘘だと云うに違いない。」(同書、171頁)云々と書かれているのである。牧口は科学の世界にも明るく相当の学者であったようだ。ところがこの中性子(ニュートロン)の発見並びに命名は、英国の物理学者であるジェームズ・チャドウィック(Jeames Chadwick)が、昭和7年(1932年)にこの発見を報告したとなっている。また、「原子核の分裂」という用語は、細胞分裂からヒントを得て1938年以降に使われたようである。「この原子分裂の定義は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。」このように牧口常三郎が言う時の原子爆弾の認識には大きな問題を孕んでいるがそれにはひとまずここでは触れないでおくことにする。


さて、そうすると牧口という人はまだ発見されてなく用語としても使われてない中性子の話を使用して、「価値論」を書いたという可笑しなことになるのである。

だからそうではなくて、この個所は、戸田城聖が牧口の「価値論」初版の出版後に何を思ったのか、牧口常三郎が書いた文章のように見せかけて、私言と混ぜ合わせて22年後に戸田城聖による牧口常三郎の「価値論」の【校訂増補】版が出版されたと見たほうが理解しやすいのである。しかし戸田はその個所を自分が挿入したのだとは、一言も書いてないのである。


戸田城聖が【校訂増補】して昭和28年(1953年)11月18日発行の創価学会版として出した「価値論」は、オリジナル版の牧口常三郎の原著「価値論」昭和6年(1931年)2月以前?【正確な発行日や出版社は不明】とは、22年以上かけ離れているわけです。一方で原著者の牧口常三郎は、昭和19年(1944年)11月18日に73歳で東京拘置所の病監で亡くなっているわけです。つまり牧口常三郎の死後10年後に出版されたのですから、戸田城聖の【校訂増補】版は、牧口は見ようにも見れないわけです。元々書いた著者が手に取り見て確認した【校訂増補】ではないのです。創価学会の戸田城聖が、学者牧口常三郎の名を勝手に借りて書いたものだという事が言えるのです。

またこの戸田城聖の【校訂増補】版「価値論」に収めている、田邉壽利、新渡戸稲造、柳田国男の名前を冠した書評は、この戸田城聖の【校訂増補】に寄せられた書評ではないと見られます。なぜならば、これら各氏の書評の日付は昭和5年(1930年)10月だからです。

田邉、新渡戸、柳田各氏らの書評は、戸田の書いた「価値論」【校訂増補】版(昭和28年(1953年)11月18日創価学会発行)への書評ではなく、明らかに各氏らの書評は牧口の書いた「価値論」に対して書かれたものであり、戸田の書いた「価値論」のために掛かれたのではなかった。このことを戸田城聖は、明快に断ってはいなで利用したのです。

戸田がどこからどこまでを【校訂増補】したのかを示さずに、あるいは戸田が書き足した個所や削除した個所も不明瞭な本なのである。田邉、新渡戸、柳田らがこの【校訂増補】した戸田の文章を読んで書評を書いたわけでもない。牧口常三郎の文章に寄せた書評を、読者の目を掠(かす)め誤魔化して、戸田の書いた【校訂増補】版の書評をしたごとくに合し入れて、一本となして我田引水のトリック本を戸田城聖が作り上げたということなのではないか。




























































この牧口の初版第一版の「価値論」の出版年月日は、「価値論」《昭和28年(1953年)11月18日 東京 創価学会発行 信濃町》にはその説明がないためにわからない。この昭和28年(1953年)創価学会発行の「価値論」の著者は「牧口常三郎」となっているが、その脇に「遺弟 戸田城聖 補訂」と並んでいる不思議な本なのである。

「補訂再版の序」(同書、1頁)には戸田城聖が「創価学会会長」の肩書で「先生の価値論を校訂増補し、世界の学会に問わんとするものである」(同書 1-2頁)と書かれている。ここでの「先生の価値論」の「先生」とは「牧口常三郎」のことであることはゆうまでもない。

しかしこの「価値論」を読む限りでは、どの個所を戸田が補い、どの個所を改訂し増補したのかは全くわからないのである。半分ぐらい書き換えたのか、それとも全面的な校訂であったのかどうかも分からないのである。



Ⅱ)牧口常三郎の「価値論」書評 戸田城聖「校訂増補版」を読んでの書評ではない





























少し面白いのは、昭和5年(1930年)にこの牧口常三郎の「価値論」?の第一版の「抜」や「書評」を書いた人物がいる。フランス社会学者の田邉壽利や教育者の新渡戸稲造、民俗学者の柳田国男などの文章が掲載されていて、彼らがそれを書いた日付が記されている。田邉壽利は昭和5年10月。新渡戸稲造は昭和5年10月である。柳田国男は昭和5年10 月 日に書いたと日付が入っている。そうするとこれらの各氏の書評は明らかに、戸田城聖による昭和28年(1953年)11月18日 創価学会発行の「価値論」=「校訂増補版」を読んでの書評ではないという事が言えるだろう。どうして田邉壽利や新渡戸稲造、柳田国男の名前を利用するのか?これは戸田城聖によるトリックであり悪用ではないのかと思えるのである。


一般に本が書かれてそれを読んで抜とか書評は書かれるわけだから、この「価値論」の初版の出版は昭和5年(1930年)10月以前ということになるだろう。

ところが同書3頁には「原版の序(原文そのまま)」と掲載されている文章が8頁まで牧口常三郎の文章として掲載されていて、その8頁の最後の箇所には、この文章を書いた日付が入っている。「昭和6年2月」とある。署名も牧口常三郎とある。「価値論」は、そのために、「昭和6年2月」以前に於いて牧口常三郎が書いたと一応は言えるのである。




「二、第一版発行に際し寄せられた各氏の序文」(同書 237頁)とあるが、ここでの「第一版発行」とは牧口常三郎の「価値論」であり、「寄せられた各氏の序文」(同書 237頁-255頁)の「各氏」とは、「田邉壽利。新渡戸稲造。柳田国男」である。































彼らがもしこの牧口常三郎の書いた原著第一番「価値論」への書評を書かれたとするならば、それは昭和5年10月以前ということになるだろう。しかし彼らは牧口の「価値論」に関して殆ど何も書いてないのが不思議なのである。








Ⅲ)牧口常三郎は「日蓮大聖人御書全集」を参照していない事

同様な可笑しなことが引用した日蓮大聖人の御書に関しても言えるのである。牧口の「価値論」初版の昭和5年以前だとして、日蓮大聖人の御書全集の発行は昭和27年(1952 年)4月28日発行なので、牧口常三郎は「価値論」を書く時には、この御書を参照していないはずである。

いずれにしても牧口の見ていた日蓮大聖人の御書とは、昭和27年発行の日蓮大聖人の御書全集ではないということである。一体どこの何を読んでいたのかは非常に興味のあるところだが、戸田の「校訂増補」のやり方にはそれういうことは一切説明がないのである。またこの個所もいろいろと戸田城聖が手をいれたのであろうことが推測できるのである。


Ⅳ)戸田城聖の得意技 混ぜ合わせ結び合わせ理論

仏法には邪義の作り方として法を他の経典から盗んできて自愛の経典に盗み入れるやり方がある。混ぜ合わせ結び合わせ理論また細かくは経典の前後を取り換えたり、一字の読みを変えて意味を違えるのまである。戸田城聖という人は数学の先生であったという。混ぜ合わせや結び合わせの理論が好きだったようで、これで自説を立てて仏教の味わいを変えた人でもある。

戸田城聖の獄中の悟りは有名だが、「無量義経」の経典を読んで「法華経」の仏の悟りを得たと平気で言った人である。「無量義経」の経典は、釈迦一代四十余年の説法では未顕真実(いまだしんじつをあらわさず)の経典なのでこれでは都合が悪いので、「無量義経」も「法華経」も一冊の論文の序文と本文の関係で、前後であって、同じことなのだ。「無量義経」の経典の悟りは「法華経」の悟りと同じなのだと、邪説を作り立てたのである。そういうことを平気でやった人なのである。