2013年12月21日土曜日

「日本の伝説」柳田国男著 (角川文庫)を読む 浜辺の砂子の数ほどある話しを数えて・・・


そうとう前から「大師講」という言葉が気になっていた。それがこの柳田の本に書かれている。私の知りたかった意味はそこには書いてなくて、民間での使われ方の事例が幾つも引かれている。本書そのものがそうした各地の民間での仏教や神話事例の個別的な解釈のお話しである。これが集めれたものだ。仏教の因果応報もここではおかしなことに仕返し談になっている。これが弘法のこととなるとなお面白いが、豊臣秀吉でもよいし必ずしも別の人でもかまわないということらしい。つまり誰でもよいのである。

その場その場の土地状況の個別性にあわせて話しができているので普遍性とは乖離していて、むしろ話の事例は数限りなくあり浜辺の砂子の数を数えているようでもある。柳田はこれを面白くないと思ったのか、「これと同じような伝説は、他の地方に数多くありまして、ただ関係した人の名がちがっているばかりであります」と言っている。

これは柳田が、「こんな話はいくらでもありますから、もういいかげんにしておきましょう」と言うとき、私たちは伝説の摩り替えのトリック性に気がつくのである。別の言い方をすればそれは随他意の方便の話しであるということである。対象は数限りないために、だから話しは無尽蔵にあるわけだ。

そのことに柳田は気がついていたのは言うまでもない。民間伝承の保存を叫んでも、それは浜辺の砂子の数ほどある話しを数えているようなものだということである。