2011年3月12日土曜日

【ルポ前編】日本の宗教団体の隠れ蓑―ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館 

―ユゴー文学館の名に隠れた日本の宗教団体




(1)フランス創価学会青年部との出会い 


2010年3月13日、初めてこのヴィクトル・ユゴー文学館をわたしは一人で訪ねた。わたしの友人がこのユゴーのシャトーの前を仕事の帰りにわざわざ寄り道して通るのだとある時に話していた。この友人によるとこの辺の山には創価学会の池田大作会長の魂が宿っているのだと真剣になって話していたのがひどく気になっていた。彼はこの風景が創価学大学のある八王子の山麓と似ているのだと説明している。

わたしが訪問した時にはルーマニア人の婦人がベンツを同館の庭園内の駐車場に乗りつけていた。婦人はベルサイユ宮殿近くに住んでいるといって大変に愛想がよい。「大変よかった、次は夫を連れてきたい」と上手なフランス語で話した。

わたしが庭園の中心にある本館のシャトーに入った時にはこの婦人一人が訪問客でステファンという学芸員がシャトー内の案内をすでに始めていた。



冬が明けて、パリの西近郊のビエーブル渓谷にある「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」の開館を待っていた。


わたしは、晴れやかにドレスアップした応対の女性達がいる玄関のホールに入り入場券を渡した。半券が返されて、「何語がわかりますか」とフランス語で質問された。「フランス語なら案内が始まったばかりなので、よろしければ、一緒にどうぞ」といわれ、学芸員のステファン氏が説明しているユゴーの若い頃の作品『死刑囚最後の日』などが展示された南東に窓の向いた部屋へ案内された。


するとわたしの直ぐ後からジーパンにジャンバー姿の体格のガッチリした青年がどこからともなく現れて入ってきた。大きなバックを肩から斜めにさげている。青年も訪問客らしいが門から玄関までは結構な距離がある、駆け足でやってきたとは思われなかった。


しかし、この青年が単なる訪問者ではないことに気がつくのにはそれほど時間はかからなかった。どうもこのフランス人の男性は日本から来たばかりだという若い娘さんによってここに連れられてきたという設定だったらしい。

が、これがばれてしまった。この青年は創価学会の青年部でわたしを監視するためについてきていると直感した。一緒に来た若い日本の女性はこの男性と一緒に見学をしないのはフランス語がわからないということらしい。

訪問者らしきこの日本から来たばかりだという若い日本人女性を案内していた管理人は日本人の男性であった。学芸員の案内する私たちのグループを前に後ろにすれ違いながらシャトー内を見学していた。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館、写真は南東側から
建物は後で作られたもの、ユゴーが訪問した頃のものではない。

「いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」と、さきほどの若い女性はどこの美術館でもあるような、しばしば訪問の最後の部屋などに設けられてある記念品や絵葉書の並ぶブティク・コーナーで、そこに置かれた筆記帳を前にして、私の方を見て宣言するように呟いた。

わたしはこの女性を知らなかったし、それでわたしが創価学会員ではないと言い返す必要もないと考えて答えずに黙っていた。

「連れてきた」という男性は、先ほど私の後から入ってきた人で彼女の発した日本語がわからないのであろう。記念品の本や書籍などをいくつか手際よく選んで、管理人のガイド氏にお金を払って品物を彼女に渡した。少しへんだ。が、どうもプレゼントらしい。

若い女性は何気なく質問してきた。「フランスには長いのですか?」「フランスで暮らすのはどうですか?」と、挨拶のような質問であった。

私は、「今のフランスでは仕事がないと難しい。滞在許可は簡単には取れないから」と短く答えた。

管理人のガイド氏はお金でも計算しているのかテーブルの上に置かれた小さな金庫箱を前に首を垂れたままじっとして私たちの会話に耳を傾けていたようだった。

私は彼の方に顔を向けてからこの女性に「ヴィクトル・ユゴーを食べなければね」と続けて答えた。

管理人のガイド氏は反射的に「ヴィクトル・ユゴーを食べる?」と、私のいった言葉を低く口ごもって繰り返し、一瞬だが顔を私の方に向けたが、また下を向いてそのまま黙ってしまった。

青年とこの二十歳前後の女性はフランス語で話していた。来たばかりにしてはフランス語がかなりうますぎる。

私は翌週に再びビエーブル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館を訪問した。同館は土日の午後にしか開館されてない。今回は館内の訪問ではなくて管理人のガイド氏に話を聞くためであった。

ユゴー文学館の敷地には本館のシャトーの他に北側に道路に沿って管理人宅があり南側にはビエーブル渓谷を流れる川岸から30メートルほどの高台に同館の運営する喫茶店がそれぞれ別棟で建っていた。



2)ファージュ氏 の池田大作との出会いは日本の習慣?

池田大作とアンドレ・ファージュの出会いはビエーブルの市庁舎であった。「この町に創価学会が引っ越してきたので、日本の伝統に従って、近所の名士を集めての紹介があった」という。「そのときに自分もよばれたのだ」とファージュ氏は話した。

ファージュ氏というのはビエーブルの町にあるフランスの重要な写真博物館の館長を務めていて父親のジャン・ファージュ氏と2人でこれを創立した人である。

ビエーブル写真博物館内の写真機の展示。


ファージュ氏が初めて池田氏と出会った頃には現在のヴィクトル・ユゴー文学記念館はまだ存在していなかった。

ファージュ氏のいう新しく引っ越してきた創価学会の買った城(シャトー)というのは、町の中心にある市庁舎からは100メートル程も離れてない商店街の西の方にあって、町の公園の一部が隣接していた。シャトーといっても修復がされているせいもあり街道側からは全然その雰囲気が感じられるものではない。ただ屋根のつくりなどにはその面影が偲ばれる。

建物は17世紀風の館で道路と反対側の敷地には広大な庭園を持っていて、細長く傾斜をもってビエーブルの川岸まで100メートルほども続いていた。そこには樹木が植えられてあった。この館は現在は創価学会のものではなくて英国人の家族が住んでいた。私はそこを後日訪ねることにした。


ファージュ氏はこの初めて池田にあった市役所で、「この町にはヴィクトル・ユゴーがしばしば訪れたシャトーがあることを話したのだ」と私に語っている。


彼は次のように話したのだといった。

「ベルタンという新聞社の社主が所有していたシャトーがこのビエーブル渓谷にあった。ここにヴィクトル・ユゴーが来るようになったのは、このベルタンがまだ無名であったユゴーを新聞でよく評価してくれていて、その返礼に文学サロンとなっていた彼のシャトーを訪れたのだ」と言った。

「それからユゴーとベルタンは親交を結ぶようになった。ベルタンのシャトーには文人のシャトーブリアンやエミール・ゾラ、音楽家のベルリオーズなどがやってきていた」そして、「ユゴーがこのシャトーを去る頃には大文豪に成長していたのだ」と、大きく両手を高く広げてファージュ氏は、池田氏の前で説明した模様を再現して話してくれた。


ビエーブル渓谷にある市庁舎。ここでアンドレ・ファージュ氏は池田大作氏に会った。


ファージュ氏は、池田氏との出会いがどうして実現したのかを私に語ってみせた。

それは「新しく引っ越してきた人は近隣の人々を招待するという日本の習慣からなのだ」と、私の顔をのぞきながら説明し、ビエーブル渓谷にシャトーを買った池田氏が、そのために街の名士を招待したということだと話した。


ファージュ氏は「そういう習慣は美しいと思うが、はたして日本に今も存在するものかどうかは私は知らない」と付け加えて語った。

創価学会が買ったというビエーブル渓谷のシャトーで、欧州創価学会の事務所として利用されることになっていたという。現在の持ち主は、買った時は中も外も荒れ果てていたが綺麗にした。まだ全部改装がすんでないといっていた。上の写真は2010年に筆者が撮影。


この写真が掲載されているのは、池田大作氏の写真集である自然との対話「Dialogue  avec la Nature」(1990.Soka Gakkai International France)である。つまり創価学会 インターナショナル フランスの発行になっているわけだ。 (64,rue du Lycée 92332 Sceaux Cedex)とあるのは、現在のパリ南郊外のソー市にあるフランス創価学会の住所であって、この写真集の奥付に書かれている。
上の写真は1989年6月の撮影になっているが、1987年6月にも同シャトーの庭の一角が撮影された写真が同じ写真集に収まっている。



池田大作氏の写真集である自然との対話「Dialogue  avec la Nature」(1990.Soka Gakkai International France)の表紙。


池田大作氏の写真集である自然との対話「Dialogue  avec la Nature」(1990.Soka Gakkai International France)の奥付。これは当ルポで後に問題になってくる、Soka Gakkai International Franceの略号が、「SGI France」の文字であることを証明している一つの文献的な証拠でもある。わたしがこのことを、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の管理人夫妻に指摘した夜、その直後に同文学記念館の金属製の郵便受けにあったこの文字が削り取られたのであった。翌日、再度ここを訪れて私はそれを確認して写真に収めている。




ビエーブル渓谷に創価学会が買った館(シャトー)は、これは現在は英国人が所有している。創価学会のヴィクトル・ユゴー文学記念館のシャトーはこの建物よりも西側に5~6百メートルほど行った所にあって後で買ったものだ。


「それはいつの頃ですか」と私が訪ねた。

「いまのヴィクトル・ユゴー文学館のシャトーを買う前のことで、ヴィクトル・ユゴーのシャトーは、私の知りあいの者もその敷地の一部を持っていた」と語った。

ファージュ氏は今のユゴー記念館を買うよりも前に、「池田会長は、もっと市役所に近い場所にシャトーを買ったのだ」と話したのには私は驚いた。

「それは初耳です。知らなかったことですね」と、私は身体を乗り出していた。

詳しく位置を示して欲しかったが、ファジュ氏は左右に頭を動かして何かを探している。彼の書斎には地図は身近には見当たらなかったようだ。

わたしは、それを探しに席を立つことで話が途切れることを恐れた。「それから・・・」とその先の話を促した。



(3)入館検問


入り口に2人の青年がいた。2人は、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の入館の切符の販売を担当しているのであったが、それだけではなかった。


「あなたたちは創価学会の青年部でしょう?」「ここには学会活動で来ているのですか?」「そこのベットはなぜあるのですか?」などと率直に聞いてみたのである。


中心者格の背の高い黒人の青年は躊躇していたがまもなく答えた。「ベットは遠方から活動でこのユゴー文学館にやってくる者が休むためなのです」といった。彼はパリ南郊外のアントニー市から創価学会の青年部の活動で来ているのだといった。


ヴィクトル・ユゴーが何度か家族と訪れた場所だが建物は当時のものではない。写真は南側からの撮影で雪が勾配と遠近感を消している。


ビエーブルの川はここではまだ流れは小さく城の前面で蛇行しながら左から右へ西から東へと流れている。隣町のベリエール市内を抜けてアントニー市付近まで流れ、方向を北に取りながら地下に流れをかえてパリ市内のイタリア広場を通過して現在はオーステリッツ駅とノートルダム寺院あたりの土管口からそれぞれセーヌ川に流れ込んでいる。

ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店でガイド氏に私が質問した。それは入館案内所の切符売り場にはベットが置いてあったことが不思議に思えたからであった。一人用の小さなもので奥の閉ざされた窓の方に寄せてある。切符売り場のテーブルの背後にはこのベットを隠すかのように低い衝立が置かれてあった。

「なぜベットが一人分しかないのですか?」と聞いた。ユゴー本館の城(シャトー)の地下には宿泊施設がつくられている。活動が忙しくなると使うのだと説明してくれた。

私はその後一週間して、寒い初春のある日曜日にユゴー文学館を再訪した。切符売り場を担当していた顔中ニキビだらけの青年は私が来ていることに気が付かなかった。戸外の寒さを避けてかガラス戸の内に避難していた。私はそのガラスを指で軽く叩いて合図した。

寒そうにして、ワイシャツの上にカーディガンを重ねた青年が顔一面を赤黒くなったニキビに埋めて私の前に出てきた。

私は、入場料の金額を知っていたが改めて聞いた。青年は1人であった。先週の青年ではない。何人かが交代で、土曜、日曜の2日間の週末だけ開館するユゴー文学館の活動をしているらしい。彼等は選ばれたフランス創価学会の男子部員なのであろう。

このかっての門番小屋のような入館検問の建物は入り口の扉の上部が格子で枠が白いペンキで塗ってあり小さないくつもの四角いガラスが美しく反射している。

門番小屋からは、城がある本館の方が見渡せた。広い庭園はやや南に傾斜しながら広がっている。景観は途中から急な崖になって30メートル下にビエーブルの川が右から左に細くゆっくりと東に流れていた。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館の入り口の門前では入場券が男子部によって売られていた。庭の奥が駐留場になっている。


ニキビのある青年は少々不機嫌な様子で、「入るのか」と一言いった。私が思案していると、「入場料は4ユーロ(約480円)だ、庭だけならば2ユーロだ」という。


そして、「ぜんぜん高くない」「パリの美術館がいくらするのかあなたは知っているのか」と、青年はパリの美術館の値段は示さずに「それに比べたらずっと安いのだ」といった。


彼は私を美術館とはおよそ縁の遠い者のように見立てたようだ。それにしてもパリのオルセー美術館やルーブル美術館などとは値段を比較に出すべき筋のものではないだろうになどと思いながら、私の脳裏にはこの男性はどこから来たのだろうと、ふと疑問がよこぎっていた。


フランス各地の美術館や博物館を訪問して入り口の係員から「入場料がよそよりも、こっちのほうが安い」などという宣伝文句などはかって私は聞いたことがなかったので驚いた。この一般市民に公開されたヴィクトル・ユゴー文学館はこのニキビの男性の気に入りなのであることがわかった。
ヴィクトル・ユゴー文学記念館の入り口前に駐車しようとした人に男子部員が飛び出してきて尋問した。バイクの女性は入場しないで直ぐに立ち去ってしまった。


「それじゃ館内を見せてください」というと、この男性は「少し待って」といって、次に「寒いから」といって中に入り、私も入るように招き入れた。


ユゴー文学館の庭には3月の春を告げるスイセンが花を咲かせたばかりで陽光はあったがまだ弱く寒かった。


ニキビの青年は、誰かに電話をしている。料金のことではなくて、なにやら館内訪問のことで確認しているらしい。私は青年の前に立ていたが、この小さな建物の内部をあちこち眺めることにした。

青年が座った前のテーブルの上に電話と小さな金庫箱が置かれてあった。部屋は一つだけだ。カーテンのつい立が真ん中にある。その左奥に1人用の簡易ベットが毛布を被って置かれてあった。上着が脱ぎ捨ててあったのが見えた。

青年は突然の訪問客に不意に起こされて、少し機嫌が良くなかったのかもしれない。


青年は電話をし続けている。彼の前のテーブルの上には館内案内書の英語版があった。私はこれに手を伸ばして取って眺め始めた。青年は狭い部屋の中で電話の会話を聞かれまいとしているのか、受話器を持ったまま急に背中を私の方に向け直した。


しばらくして、受話器を離してから、私に、「何語ができるのか」と聞いた。わたしは「フランス語、英語・・・・・」と答えた。わざと日本語とはいわなかった。いえば先週に会っているガイド氏が案内役で出てくるのがわかっているからである。


ヴィクトル・ユゴー文学記念館。写真は北側から


















館内は案内付きで自由見学は禁止されていて好きなだけ見るというわけにはいかない。再訪したのもその理由によるが、またわからない疑問が湧き出したせいでもある。


電話の向こうで話しているこの青年の相手は、明らかにユゴー文学館のガイド氏であることが想像できた。

また何かを電話で話している。そして今度の青年の質問は、「あなたはどこの国の人なのか」というものであった。これには少しは驚いた。が、私は日本人であるとは答えなかった。答える必要はないと思った。再び、「何人か」と聞いてくる。入館検問はかなり厳しいのだ。


青年はまた受話器を持ち直して電話の相手と話し始めた。その会話の中には前回に案内してもらった学芸員の「ステェファン」とか、ガイド氏の名前とかの聞き覚えのある名前があった。


そしてこの長い検問の後で、やっと私は青年からの最終判決がくだされたのである。「あなたはここには前に来たことがある」、「日本人でしょう。ガイドを知っていますね」というものであった。


私は兜を脱いで、「そうだ」と答えるのみであった。しばらくすると、ヴィクトル・ユゴー文学館のシャトーのある庭の奥の方から門番の検問小屋に向って小砂利の敷かれた小道の上をゆっくりと歩いてくる1人の日本人の姿がガラス戸の奥に写った。 



(4)ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店


ヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店は地上階より一階分だけ高くなっていて見晴らしがよい。北側の窓からは庭園が一望できる。西側にある入り口のガラス扉と南側にある窓からは周囲の低く開けた景観が遠望できる眺めの良い場所に建っている。

室内には茶色の小型のグランドピアノが置かれてあった。喫茶室の東奥にもう1つ広い部屋があってテーブルと椅子が置いてあるだけの殺風景な部屋であった。

私達は中庭に面した窓際のテーブルを前にしてすわった。

管理人のガイド氏(以下、ガイド氏と呼ぶ)は道路に面した東側にある正門が見える方を向いて座り、私はシャトーのある西の方を向いて座った。



写真はヴィクトル・ユゴー文学館の喫茶店で北側から撮影。入り口は西の右側の階段から入る。私たちの座ったのはこの窓側。ヴィクトル・ユゴー文学館本館のシャトーはこの喫茶店の右側隣に位置して建っている


私は先日の感想を一言、話し始めた。「よかったですよ、青年部なのでしょうか?」


「ステェファン学芸員ですね。よく説明しようとみんな一生懸命に勉強しています」と答える。
「先日の訪問の時に日本の若い女性と来ていたフランス人青年は、訪問客ではなくて学会の青年部ですね」と私が質問する。


ガイド氏は、「そうです。学会員です。わかりましたか」と答えた。


「でも何故あの時に彼女は、いいところがあるから、いこーって、連れてきたの」などと、「私達の前で、不思議ですね」「彼女は学会人ですか?」わたしが質問した。


「いいえ、彼女は学会人ではありません」 「友達からここ(ヴィクトル・ユゴー文学館)を聞いたのでしょう。行ったらいいといわれていたのでしょう」と答えた。


彼女の父親は関西の人であるという。「研究者で、そのためにアメリカやフランスにきていた。その父親と幼い頃に一緒に来ているのです」といった。さきほどガイド氏が学会人だと明かした青年は、この女性の父親がフランスに滞在した時の大家さんの家族関係の人なのです」と、ガイド氏の話しは非常によく説明されていた。


しかし、ヴィクトル・ユゴー文学館に友達から行ったらいいといわれて来た女性なのだから、とうぜんのことユゴー文学館には初訪問であったということか?学会人ではないこの女性の素性をガイド氏は大変に詳しいのはなぜか。


フランス創価学会の男子部員が、池田大作先生(ガイド氏は「先生」と呼んだ)の建てたヴィクトル・ユゴー文学館に、学会員でない日本の若い女性に連れられてやって来たというガイド氏の説明になるが、それはどこか理解に困難な不思議な話しに思われた。 



(5)石と金板の「石碑」 詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」 


ヴィクトル・ユゴー文学館は日本人客が来ると管理人のガイド氏が館内のガイドをしている。この方に館内の案内を二回ほどしていただいた。

一度は他に日本人客がいなかったので私一人が聞き手だった。二度目は若い夫婦の日本人といっしょで、男性はプラズマ発電という難しそうな研究をされている研究者であった。エッソンヌ県に二年ほど住んでいてあと一年ほどフランスには滞在する予定だとガイド氏との話しでわかった。ガイド氏はその研究所がどこにあるのかを知っているといった。

若い女性の方は奥さんのようだ。今は「草刈が、わたしの仕事なのです」といったあとで、「おくさんはどんな料理をつくるのですか」とガイド氏が切り出した。「自分はフランス料理を勉強していたのです」とも話す。

わたしは「今回のガイドは、先日初めて案内していただいた時とまるで違っていて、大変に立派なものでありました」と二人の前でいってみせる。続けて、「以前にステファン氏の説明を聞いたが、それよりも、ガイド氏の方がはるかに素晴らしいと思う」と感想を述べた。二人の若い夫婦は私の言葉にうなずいたようだ。

これでは何だか私がガイドと釣るっているみたいにも二人には見える。そうではないことを示すために、私はガイド氏の説明に時々なにかコメントをしたり質問をしたりしなければならなくなった。そうでないと私も創価学会の青年部になってしまうからだ。

「ユゴーが亡命中のグルノゼー島にも婦人だけでなく愛人のジュリエットも連れていったのですか?」とか、このビエーブル市の隣町のジョイ・アン・ジョザスの丘の上にはジュリエットのためにユゴーが借りた家があるが、そこにもこのユゴーの「秋の木の葉」の詩集に収められた詩の一節が大きな古ぼけた石版に刻まれて家の壁に貼り付けられてありますね」などと話したのである。

じつは、ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園の奥にも石碑があった。そこにこの「ビエーブル」の詩の一節といっしょに創価学会の池田大作氏の名前もどういうわけか刻まれてあった。こちらの方は金版の上に文字が彫られてある。

詩文の彫られた石碑にはどうしてここに池田氏の名前が書かれているかが説明されてある。それは(池田が)ここでこの詩を読んで、この場所で生活していたヴィクトル・ユゴーを偲び感動したので、石碑を作らせたとある。

これだけでも驚くべき厚顔さだ。どうも池田氏の読んだ「秋の木の葉」詩集に収められた「ビエーブル」の詩というのは、フランス語ではなく日本語訳であったことが想像されるのだ。

どのような訳を池田氏はここで読んで感動したのかは知らないが、ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が訳されて掲載されてある。しかしこれはフランス語原文とは異なっているのである。


案内パンフレットの日本語訳というのは、池田氏が碑文に書いた感動を証明するかのように、原文にあるはずの文字を削って書き換えて訳してある。つまり原文にある筈の「そういう場所のひとつなのである」の箇所がこのパンフレットでは削って消えているわけだ。ここを理解してないので、池田氏のような感動が起こるのであろうかなどと私は想像するより他はなかった。



案内パンフレット掲載のユゴーの詩文の日本語訳は次の通り。

写真は、ヴィクトル・ユゴー文学館で配られている訪問者案内パンプレット。同文学館の庭園にある金版に彫られたヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の「ビエーヴル」の詩の日本語訳に相当すると思われる訳がヴィクトル・ユゴー文学記念館で配っているパンフレットの表紙に掲載されている。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「そう、私達の心を酔わせる、天に漂う、何かが息づいているのを感じる場所:子供の頃、愛し、夢見た場所、その穏やかな、尽きせぬ、深き美しさは、この地上の、人間のすべての悪を魂から忘却させ、昇華させる。」 


ヴィクトル・ユゴー 詩集「秋の木の葉」 <ビエーブル:


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ 




写真はビエーブルのヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園内の廃墟を模した塔。その手前に池田大作氏のつくらせた、ヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」の詩「ビエーブル」の一節を彫った金板が「石碑」としてたっている。

これをアップしたのが、下の写真。


ヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭園にその詩文が金版に彫られて立てられているが、その詩文に相当すると思われる箇所を以下に、ガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )と、同記念館の配る見学案内パンフレットの日本語訳文を掲載して比較して見てみる。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館で日本人訪問者に配っている館内案内の日本語パンフレットには、この石碑に刻まれたフランス語の詩文の箇所が日本文に訳されてパンフレットには掲載されたようだが、しかしこれはフランス語原文の二箇所が訳されてないのである。

ヴィクトル・ユゴー文学館の庭園にある金版の詩文の引用箇所は、下の詩集の本文写真では右頁(783頁)上部の6行である。


写真はヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の木の葉」「ビエーヴル」の収まっているガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の782-783頁である。


上掲載のガリマール版(Editions Gallimard 1964 VICTOR HUGO OEUVRES POETIQUES I )の783頁の詩文において、上から1行目の「un de ces lieux où」と3行目にある「un de ces lieux qu'」との箇所が日本語のパンフレットでは訳されず省かれている。この2箇所のレフレインが何故訳されてず削除されたのか?

この省略されてしまった箇所は詩における繰り返しの機能としても重要な箇所だ。しかもこのビエーヴルという場所の価値を決める大事な言葉である。これが訳されてないのは池田大作氏は知っているのであろうか?あるいはわざと日本語訳をこのように原文を削除して訳すことで、日本人訪問客へヴィクトル・ユゴー文学館の価値付けを高くしてみせたかったのであろうか?池田氏の感動したという詩はどんなテキストを読んでの感動であったのか。

この引用箇所は、ほぼ正確に金版に彫られたとみえるが、一箇所大事なものが削除されてしまった。それはこの本文テキストの6行目の最後にある感嘆符が池田氏の金版では省略されているのがわかる。

この詩全体の中でも感嘆符は頻繁に使用されていて、その感嘆符の意味は軽くはないはずだ。なぜならば池田大作氏自身がこの詩に感動したので詩を碑に刻むようにいったからだである。




(6) 池田大作の魂が宿る山と渓谷

「あの山には池田先生の魂が宿っているのです」と私の友人が話したのには驚いた。彼は小型自動車をベルサイユから東へ向う県道を運転していた。窓の前方に展開する美しい山野の風景を指差しながら助手席にいる私に説明した。


「左に見えてきたシャトーが池田先生のヴィクトル・ユゴー文学館」。ビエーブル渓谷が山を背負った南向きの高台の斜面に冬の低い日差しをうけて大きな角ばった建造物が薄いバラ色に静かにたたずんでいた。

「この辺の景観は八王子の創価大学の風景にとても似ている」と彼はいった。


私たちは前方奥の隣町ベリエール・ル・ビュッソンを目指していた。「創価大学パリ分校のあった所だよ」と教えてくれる。日本の創価大学を知らない私は、「高圧線を走らせる鉄塔がこんなに建っているのかい」などと質問する。

私の友人は早大の出身であったがこのパリ分校には特に関心があったようだ。彼は仕事が終わると、わざわざこのパリ分校のあった渓谷を走る細い旧道を選んでヴィクトル・ユゴー文学記念館の前を抜けてベルサイユ方面の自宅に帰るのだといった。


創価学会員の彼はパリ分校の設立計画があった当時を偲んでいるらしい。彼の心の中にはたしかに池田大作への思慕の感情が宿っているように見えた。とても真剣なのだ。

私は後日、彼に「池田の魂が宿っているといったのはどういうことか」と聞いてみた。

「創価大学の海外分校は、アメリカが中心になってしまい、パリ分校は廃校になってしまった」と淋しそうに答えた。その次に、「池田先生が精魂を傾けて若い青年たちを鍛えようとされた場所なのです」と心を持ち直したように早口で語った。


このときとっさに私の思ったのは、「若い青年たちを鍛えるというのは、洗脳することではなかったのか?」などと一瞬ひらめいたが、彼には話さなかった。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館のあるビエーブル市の東隣り町のベリエール・ル・ビュッソン市には確かに創価大学パリ分校が存在していた。しかしフランスでの創価学会のセクト問題が荒れ狂う中でいつの間にかパリ分校は封鎖され数年前に売却されていた。


その存在は多くの人々の記憶からも消えようとしている。このヴィクトル・ユゴー文学記念館も、フランスに於けるセクトの異名であるのか創価学会の名前を捨てて、創価学会とは無関係な文化団体としての美術館の装いをみせていた。


世界的に有名なフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーの名前を冠していればそれだけでなにか公的な美術館になってしまいそうな不思議さがあった。


しかしその公共的な装いの響きとは別に創価学会という宗教団体の青年部などによって運営され管理されているというのは何かしっくりとしないものが残った。

ヴィクトル・ユゴーを隠れ蓑にして創価学会を宣揚するための活動をしているとなれば、これはフランスでは創価学会は公共的な文化団体の顔を表にして隠れ蓑をつかった宗教団体ということにもなる。


問題は、はたしてヴィクトル・ユゴー文学記念館というのはフランスの創価学会なのかということだった。それと創価学会との位置関係が問題になっていた。

少なくとも一般のフランス人は創価学会だと思ってここを訪問する人はいないのではないだろうか。
みんなそれを知らないで来ているのではないだろうか。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館は社会一般に開かれた公共的な美術館の様相を呈していてビエーブル市の案内書やこの地方の観光案内所の説明にも創価学会が運営し経営しているなどとは書かれてない。しかし、実際には、館内案内のガイドも、学芸員も、受付の切符販売の男子部も、館内で応対する女子部も、またこのシャトーの管理人もそして私を監視した青年部も含めてみな創価学会員で活動運営されていた。

ひっとして創価学会の活動の隠れ蓑なのではないかとしだいに確信するようになっていた。



(7)郵便受けから消えた「SGI FRANCE」の文字

ビエーブル市の南斜面の中腹に20世紀の初めに建造された新古典様式風の市庁舎がある。同役所の都市開発課は毎週2日だけ火曜日と木曜日とに一般の市民に開館されていた。

玄関を入ると役所の中は薄暗く、少しカビ臭い匂いが直ぐに漂ってきた。左がわの小さな扉からは大柄の女性の職員がコーヒーカップを持って出てきた。私の脇をすりぬけて奥の方へ姿を消していった。コーヒーの香りはしなかった。

受付の娘さんはアルバイトなのだろうか、この町の観光協会の場所さえしらない。

「家屋の所有者の名前は市で教えてくれるのですか」と聞いた。

「都市開発課の職員に聞けばわかるだろう。木曜日なら職員に会えるから」といった。

わたしはそれでその日に出かけていった。

先日受付の窓口にいた娘さんはいなかった。

今回は受け付けにはメガネをかけた別の女性がいた。

「都市開発課なら直ぐ左から入って右の扉を押せば誰かいるはずだ」と、手振りで案内してくれた。明るい感じの人だ。

ビエーブル市の市役所。ヴィクトル・ユゴー文学館の管理人(ガイド)氏と受付の創価学会青年部員が連絡して、私と会うことになったユゴー文学館の責任者らしき長谷川画伯とは、この市庁舎の前のベンチで話をすることになった。画伯は、ヴィクトル・ユゴーが死の前に書き残したという、「愛とは行動すること」と文字が書かれた小紙片がこの文学館の所蔵する宝であることを語った。これが収まったガラスケースの前で特にガイドたちの声に熱が入ってくる理由を説明してくれた。それはこのユゴーの考えが池田先生の思想に通じるからだと、画伯は語った。創価学会とヴィクトル・ユゴー文学館との接点が見えてきた。


フランス人にはよくあるタイプなのだろう。自信満々に話す。

「そのシャトーなら、アソシエーション(協会)のもので」、現在は「ヴィクトル・ユゴー文学館になっているのです」と、都市開発課の女性は私に説明した。

そのことならば私も知っているのだが、私が知りたいのは別のことであった。

写真はヴィクトル・ユゴー文学記念館(Maison Littéraire de Victor Hugo)で配っているパンフレット。住所が枠で囲ってあり、そこには45.rue de Vauboyenの番地が書かれてある。


ビエーブル市のボーボイェン通り45番地のヴィクトル・ユゴー文学記念館に行くと、そこの郵便受けには3つの名前が書いてあった。その一つに「SGI FRANCE」の文字があった。

ヴィクトル・ユゴー文学記念館というのは創価学会とどういう関係なのかということがますます疑問になってきたのである。

写真は「 45番地 ボーボイェン通り」。正面の家屋には郵便受けが見える。壁の上部に45と番地が大きく貼り付けられてあるのがわかる。この番地がヴィクトル・ユゴー文学記念館だ。


郵便受けの箱に書いてあるのは、「メゾン・リテレール・ドゥ・ヴィクトル・ユゴー」(Maison Littéraire de Victor Hugo)と上段にフランス語であり、中段には「 45番地 ボーボイェン通り」(45.rue de Vauboyen)とある。最下段の左端には「SGI FRANCE」とあり、その右端の方には日本人の名前がローマ字で書かれてある。

左下端にSGI FRANCEと見える。(右下の赤い色が塗ってあるのは人名(管理人・ガイド氏名)が彫り込まれてあるが、この写真では赤い色を塗って匿名にしてある)


これらの文字は総て、金属制の大きな長方形の郵便ポストの正面に刻印されたものだ。

一般のフランス人が理解できるのは、「ヴィクトル・ユゴー文学館」と住所である。それと、日本人かどうかはともかくとして人の名前が書かれているのが推測ができる。しかし「SGI FRANCE」という箇所はちょっと意味不明なのではないだろうか。

この「SGI FRANCE」というのはフランス人でも創価学会を知っている人にしか理解できないことのように思われる。

ビエーブル市の都市開発課では映像写真を使ってヴィクトル・ユゴー文学館の周辺の都市区画やビエーブル渓谷の洪水による浸水区域や建設許可の出ない保護地区など専門的なことをていねいに説明してくれた。

しかし、郵便ポストにどうして3つの名前があるのかには驚いていたが、説明できなかった。都市開発課の職員はそれはわからないと正直に話す。「詳しい人に聞いてくるから」と、「私を待つように」いい残して別の部屋へ姿を消した。

いくらか時間がたった後で、三十代の背の高い痩せ型の利発な感じの青年を伴って先ほどの女子職員が再び姿を現した。

ワイシャツ姿の青年は市の都市開発課の彼女の上司らしい。彼は295ヘクタールしかない町のことでもあり、何でもおおよそのことは熟知しているのであろう。やわらかい物腰で私の質問にいやがることもなく丁寧に挨拶して話しだした。

この男性も、私の差し出した写真のフィルムに目をやりながら、最下段の「SGI
FRANCE」の箇所は意味がわからないという。

「SGI FRANCE」の「SGI」とは、何の略字なのかと、逆に私の顔をのぞき込んできた。


この略語は、「創価学会インターナショナル フランス」という日本の宗教団体の世界組織の頭文字だと思えるがと、わたしは答えた。


ヴィクトル・ユゴー文学館というのは、3つの顔が郵便受けには書いてあると思えるが、本当の持ち主は誰なのかを知りたいのだと私は話す。


青年はこのことを始めて知ったかのように若い女性の職員と顔を見合わせて驚いてみせた。


しかし、私には彼等がいままである事実を隠していたことがわかった。

青年は「このシャトーの敷地の売買は、我々ビエーブル市役所の知らないままに不動産によって進んでいた。宗教団体であることは後になってから知ったのであり、このシャトーの売買には市役所は一切関係していないのです」と釈明するように話したからだ。


それは「SGI FRANCE」が、なんであるかを彼等が知っていたということを意味した。


後日、ビエーブル渓谷のあちこちに立っている水系に関する観光案内の看板のことで知りたいことがあってわたしは市役所をまた訪ねることになった。


季節は春になっていた。バカンスを終えて職場に戻ってきていた先日の若い女性の職員が、庁舎の玄関先に私をみつけて挨拶してきた。

「今日はなんだ」と気軽に聞いてくる。

わたしは以前の話を思い出した。「実は、あれから驚いたことがあったのだ」と答える。

「先日だが、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の管理人(ガイド氏)に、どうして郵便受けに創価学会(SGI FRANCE)の名前があるのかと直接に質問してみたのだ。あなた方に前に質問して聞いたことだが・・・」 と話す。


そのことをユゴー文学記念館の管理人(ガイド氏)に質問してみたら、「創価学会(SGI FRANCE)と郵便受けにあるのは、これは私のことであって、ヴィクトル・ユゴー館とは無関係だ」と答えてきたのです。「ここは創価学会ではないとの返事が帰ってきたのです」と説明した。


「よく理解がいかないことだが、どうも管理人のガイド氏が創価学会員だということらしい。この方が「 45番地 ボーボイェン通り」に住んでいる。そして、その住所にヴィクトル・ユゴー文学記念館がある」と、こういうことらしい。

「ところが」と、私は話しを続け、「驚愕したというのは」と話し、いっきに以下のように話した。

管理人のガイド氏が自分が創価学会員であり、SGI FRANCEと郵便受けに書かれているのは私のことだと答えたのだが、その翌日にユゴー文学記念館に出かけて行った時にわたしが見たのは、ヴィクトル・ユゴー文学記念館の例の郵便受けにあったSGI FRANCEの文字が鋭い金属の刃物のようなもので削り取られて消えて無くなっていたことだったと話した。

その職員は驚きを隠さなかった。


左下端に前日はあった「SGI FRANCE」の文字が掻き消されている。よく見ると鋭い金属のようなもので削り取った傷が周囲にも残っているのがわかる。(右下の赤い色が塗ってあるのは人名が彫り込まれているが、この写真では赤い色を塗って匿名にした)

しかし私にはどんな思いでこの文字を郵便受けの金属板から削り取らなければならなかったのかが偲ばれてならない。鋭利な金属で何度も引っかいたようなその痕跡には、なにか生命に刻印された消えない文字を掻き消すような悲痛な思いがにじんでいるのが感じられるからだ。



(8)ファージュの写真博物館と池田の東京富士美術館 


アンドレ・ファージュ氏の父親のジャン・ファージュ氏は日本に行っていない。

ジャン・ファージュ氏が亡くなった年の秋口にファージュ氏や、パリ南西部郊外のビエーブル市があるエッソンヌ県の審議会副議長であったペルシェ氏、ビエーブル前市長らカップル5組10人が創価学会の池田大作会長の招きで旅費と滞在費が支払われて日本に招待されたのだとファージュ氏はいう。

この時に八王子にある創価学会の東京富士美術館でアンドレ・ファージュ氏と同氏の父親が創立したビエーブル写真博物館の写真を持っていき展示会を開いたと語る。東京富士美術館内にパリの街並みを再現した設営が施された空間で、写真の展示会をしたのだと当時の記念写真を見せてくれた。



アンドレ・ファージュ氏の書斎に置かれたカメラ


その顛末をアンドレ氏が語っている。池田大作氏から「貴方の博物館に何かできることがあればいってほしい」といわれた。しかしアンドレ氏は、「池田氏の厚意はわかるがそれに甘えたくなかったのだ」と語っている。「その代わりに、日本からの訪問客が増えるように新聞で宣伝してもらえないかと提案したのだ」と話した。

「それならば日本で展示会をすれば多くの新聞の話題になる」というので、東京富士美術館での展示会ということになったのだと語った。

しかし実際には湾岸戦争のせいで「世界的に有名なカメラの発達の歴史がわかる素晴らしいコレクションをもっているビエーブル写真博物館の写真展は殆ど日本の新聞では話題にならなかったのです」と、静かに笑いながらアンドレ氏は私にその経緯を話した。


その後は両者の交流はなくなったという。その理由としては東京富士美術館は日本美術のコレクションが主で、写真の展示は私の時でも特別なものであったからだと説明している。


池田大作とアンドレ・ファージュとは生まれが同じ年だともいった。そして池田会長のほうが先に生まれているのだとまた笑いながら話した。



写真博物館の中のコレクション

わたしがアンドレ・ファージュ氏を訪ねたのはパリジャン紙に同氏の顔写真入りの記事が出ていて、「世界的に有名なカメラの発達の歴史がわかる素晴らしいコレクションをもっているビエーブル写真館」の「新設拡張の移転が問題になっていた」からである。

この問題は現在はエッソンヌ県やビエーブル市がいくつかの提案をだしているが敷地の問題などで行き詰っているという。

私は、「それならば写真に興味がある日本の企業などが資金を提供して、ビエーブル写真博物館を拡張なり新設してはどうですか?」と話すと。

「それが可能ならコレクションを提供してもよい」といった。同氏は外国の、例えば米国とか日本の東京でもよい。そこにビエーブル写真博物館を新設してもよいといっている。



写真の発達史がよくわかるビエーブル渓谷の写真博物館。写真は入り口側から。展示面積が足らないためにコレクションの多くが倉庫に入ったままだ。


私はアンドレ氏の言葉を不思議に思いつつ、「あなたはビエーブル渓谷のこの土地がフランス写真の発祥の地だからここから離れたくないといっていたのではないですか」と糾す質問をした。

するとアンドレ氏はうなづきながら、「だいじょうぶ、写真の時代は産業革命の時代だから」「ダブルがほとんどある。私のコレクションも2つや3つあるものがほとんどで、カバーされているのだから」と話のわけを教えてくれた。複製時代のコピーが写真そのものを表していたということか。 



(9) 桜の記念植樹の謎 

私はアンドレ・ファージュ氏に「先日、ヴィクトル・ユゴー文学館に行ってきました。貴方が植えた桜がつぼみをつけていました」と話した。

アンドレ氏は驚いて、「そうではない」と咳き込んでいう。

「私が植えたのではないのです」という。

「あそこに行った時に、桜の木を植えてはどうかとシャトーの人から案内されて、用意されていた木を出されたのでそうなったのです」と説明しいる。

ヴィクトル・ユゴー文学館のほうでは、「あなたが植樹したといっているのを耳にしましたが」と私がガイド氏から聞いた話しを伝えた。


ヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭の桜。根元に記念碑が置かれてある。背後がヴィクトル・ユゴー文学記念館。


「なるほどそれでは、話しが大分ちがうことになる」と私がいう。

アンドレ氏はすでにこのような行き違いのあるのをどこかで聞いて知っていたのであろうか。フランス流のあいづちをしながら、「ちがうのです」と強くいった。


桜の木がヴィクトル・ユゴー文学記念館の前に花を咲かせていた。

私は何気なしに日本語のガイド氏に質問して、桜が好きだという池田氏が記念植樹でもされたのではないかと思い、

「桜の木は誰が植えたのですか。植樹したのは池田氏ではないのですか」と聞いた。この時に、ガイド氏の答えは、私の予測とは意外にも異なり、池田が植えたのではないというの返事であった。

「ビエーブル市にある写真博物館の館長です」との返事だったのだ。


その後、私は再度ユゴー文学館を訪ねた時に、やはり「桜の木は誰が植えたのですか」と館内の案内もする学芸員のステファン氏に、桜の木のある庭先で運良く出会ったので聞いてみた。

彼は急にやって来たという映画学校の学生たちの取材対応で館内から外に出てきていたのであった。

この時に、ステファン氏は桜の木は、「ジャン・ファージュ氏を追悼するために植えられた」と、私に答えた。そして息子の「(アンドレ)ファージュ氏が植えたのではない」とわたしにいったのである。

ステファン氏の答えたのは、桜の木の前の石碑に書かれたものと同じことを話したのであった。しかし、それはファージュ氏のいっていたものとも、日本語ガイド氏の話しとも異なっていた。

アンドレ・ファージュ氏によると桜の木がユゴー文学館の建物の正面に植樹されたのはファージュ氏の手によるが、それは「ユゴー文学館に招待された時に、そこで創価学会側から植樹の案内が予期無くして出されて、植樹はその場の成り行きに従っただけだ」ということである。「植樹は自分からいい出したのではない」とファージュ氏はいっている。


日本語のガイド氏に再度の確認で、同じ質問をした。

すると「ファージュ氏が提供した桜を、後で学会員が植えたのだ」といい直している。

「前の話しと違う」と私がいう。

「どちらにせよ、植樹であることには変わりはないですか」と、いつもは静かなガイド氏が、今回だけは声が荒らだたしく大きくなっていた。何かを突き放すように強かった。


このことをまたファージュ氏に話すと、「それは意味は同じではない」と私に語った。



ビエーブル市のヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭にあるジャン・ファージュ氏の碑


ユゴー文学館の記念植樹の桜の木の前には直径が十五センチ以上ある桜の木がある。その根元には記念植樹の碑に年代が彫りこまれている。ファージュ氏にこのことを話すと不思議な顔をして唇をかすかに振るわせた。年代が違っているというのであった。


桜の木の前に立てられた薄い大理石のプレートには以下のように文字が刻まれてある。


「この桜の木は、フランス写真博物館の創設者であるジャン・ファージュ氏の永遠と名誉を記念して、1995年3月18日に植樹された」


控えめで謙虚なアンドレ・ファージュ氏が、自分の父親に対して書く文章ではないように私にも思える。またこの碑文には誰がこの植樹をしたのかは記されてないのである。


ジャン・ファージュ氏は既に亡くなっていたが、その生まれた年月も死亡も記されてない。つまり不思議な記念碑なのだ。

私はガイド氏に「この碑文には鍵が掛かってない」と話したのはそのためだった。


ガイド氏は「この桜は八王子の東京富士美術館とヴィクトル・ユゴー文学館との友情の証だ」と、今度は話している。

ガイド氏の話しだと、八王子の東京富士美術館とビエーブルのユゴー文学館の友情だというが、それならばどうしてこの写真博物館のファージュ氏の栄誉を記念する桜の木と碑文がここになければならないのか不思議な話しなのであった。


明らかに想像できることは、このガイド氏の主張の裏には創価学会の八王子の富士東京美術館とビエーブル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学記念館とは同じ池田大作氏の所有物で学会のものだという意識が感じられるのである。


もしも、ビエーブル写真博物館と八王子の東京富士美術館との友情の証だというのならば、何故このビエーブルのヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭にファージュ氏を讃える桜の記念碑が置かれてあって、ビエーブル写真博物館にではないのか、まったく不思議なことなのであった。

一ついえることは、フランス人の多くが知っているビエーブルの国立写真博物館の創立者である高名なファージュ氏の名前を利用したかったのだろうと思われることだ。