2013年11月7日木曜日

(三)天皇の眷属=天照大神・八幡大菩薩、つまり神や神社は拝む対象ではない

天皇の眷属である天照大神や八幡大菩薩、つまり神や神社は拝む対象ではないということは、これは第(一)章で触れたとおりである。つまり祈ってはいけない神を祈ることで、人々は宗教のまつりかたを誤ってきた。その結果、国を守護する神の力も発揮できなくなって、自然の力も弱り穀物も実らずにかえって戦乱が盛んになり自然災害も増長する三災七難の様相を呈してくる。この原因を究明したのが鎌倉時代に仏教の伝来との関係で非常な関心を持って考えていたのが日蓮大聖人であった。


▼神は仏の機能神

天照大神や八幡大菩薩とうのは仏教の信仰者を守る約束をした守り神であって、その守り神それ自体を対象にして拝むことが誤っているわけだ。そういう垂迹神であることを知らないで神社へ参拝することが、じつは仏と神との祭りかたを転倒(てんどう)させて逆さまに祭ることになる。それで下克上という問題の原因となる。神を主に仏を従にして拝むことは神の本来の意思にも背いていることになる。八幡の託宣とかいうのがそれだ。

仏を敬う者もなくなって、そのために神は法味に飢えてしまう。力が弱り人民を守護できなくなって天上に帰ってしまう。これが神天上の法門とよばれるものだ。その意味では、天皇も天照大神も八幡大菩薩もある意味での仏の一分(いちぶん)の機能神としての存在だということがいえるかもしれない。またそのように捕らえないと因果律の不確かな神の概念も正しく機能しなくなってしまうからである。

この因果律の確立した仏法にジョイントさせることで初めて神国日本が蘇生するわけだ。繰り返すと、神を拝んでもそれは祈り方に誤りがあるということで返って罰を蒙ることになる。この罰というのは功徳に対する用語ではあるが、神が機能しないで逆機能化するということでもある。したがって国を守護するはずの天照大神や八幡大菩薩神に力が無くなるために、悪を止められずに、「三災七難」を巻き起こすことになる。これは神の方からみれば祭りかたを誤った人民に治罰をもたらすということになる。

特に、神道を頭(頸)として仏教を体躯としてそれらを繋ぎ合わせて祭った場合には、「三災七難」は極度に強く起るのだということだ。具体的な例は少ないようだが、仏教団体などが靖国などの神社参拝を支持するといった場合には、特に「三災七難」というのは激しくなる。「三災」の中には自然災害の他に戦争があり市民戦争と隣国から攻められるというのがある。