2014年5月20日火曜日

「日本の色」(大岡信 編 朝日新聞社 1976年)を読む

この本の中の初めの50頁には座談会が収録されている。安東次男、川村二朗、高階秀爾、水尾比呂志、山本健吉、大岡信の六人によるものだ。日本人の感受性つまり美意識の成立を論じたところで、万葉では梅は色としてあり、梅で匂いを感じ出すのは古今(集)以後だと山本が立論。

それに対し、安東は、万葉の歌の「におい」とは色だと山本はいうが、そうではなくてそれは材料からくる「匂い」というものがあったと反論する。それらが古今の時代に入ってはじめて抽象化された非現実の花としての梅の匂いが目をつぶっていても「におう」という美意識が成立してきたのだといっている。

「源氏物語」と「枕草子」を対比して論じたところでは、安東は「日本の伝統の色というのは、どうも時間の経過の中にしか現われ得ないように思う」と主張。そして古今の歌というのは一口に言って造花の思想ではないのかといっている。清少納言の「枕草子」が一種の造花の思想でそういうところにわりと早く言った女性として面白いという。

山本は、安東のいう色が時間の上に現われるという考えは面白いが、それは色彩そのものというよりも広い意味での時代の色だろうといっている。「枕草子」は色彩感覚の豊かさ鋭さ共に日本でも稀な文学だと反発。

これに対し安藤は、それを認めた上で、しかしながら、清少納言の色彩は配色の美でしかなくて、デッサンで色で、深まりがない配色だけしか捕らえてないと批判する。山本は、座談会では誰も出さなかった言葉だが、「重ね目の色」という認識を頭の背後に持って話していたようだ。ただ安東が「私は別に、「源氏物語」と「枕草子」の価値比較をしているわけではいのだが、清少納言には、色を重ねて喜ぶという発想は全くないですね。むしろ彼女は、重ねると色は濁るしグロテスクなものなると感じたろうと思いますよ」といっていることには注目しなければならないだろう。

柳宗悦の弟子の水尾はそれを理解して、「源氏物語」の紫式部は、「枕草子」の清少納言とは異なって色を重ねても濁りだとは見ずに、深みであり味わいとみるわけで、こういう認識が日本人の色認識の基本にあるようだと安東に添加していっている。

短歌や俳句ではなく時間経過を持ち込む芭風連句の可能性を指摘して、連句の本質が他者との間に作られることにあるので一人の創作によるそれには限界がある。それで俳諧以外には本当の色の認識は現われてこないことになると。

この辺がこの座談会の一つの山であるが、連作とか連句で時間の上に現われる色を出しているという考え。また、いわるる配色の色彩と色の深さなどの問題が論じられ、主体と客体とが溶け合ってしまうという日本人の自然観の問題もあると大岡はいっている。この関連で多いに話すべきことがあるのにもかかわらず西洋絵画に詳しいはずの高階は、移り変わる色を研究したモネなどの印象派の実験を話さなかったのかが不思議である。ここには西欧と日本との絵画の接点が色に関しても存在するはずだ。色彩の東西比較論で面白い話しができただろう。

造花の思想で安東と山本はここでも意見を対立させている。つまり日本人の美意識では活花は造形美なのかそうでないのかを造花を遡上にのせて争っているわけだ。山本のいう非常に高い純度の時間と空間の中の一点に集中的に実現したのが活花の思想、茶の思想、あるいは連歌や俳諧の思想で、造花のようにいつまでも移ろわないというのとは違うと論じ、造形の思想の極限活花を造形意思を放棄したものだとさえいっている。高階はこの山本の意見に賛成し、絵にするというのが、になる。描かれた花はいつまでも残るはず、しかし、生花(いけばな)の思想はそれとは違うといっている。

水尾は安東説の活花というのは造り花なんだよとの発言に賛成して、山本、高階に反対して日本人の美意識では活花を造形美であると見ているようだ。ここに活花を造形的かどうかのもう一つの論争点があった。

活花は花の一瞬の純度の高い美が造形化されたものではないと思う。水尾が31頁あたりで展開したように、自然の絶えざる季節の巡回に対する農耕民としての信頼が表象化(だからといって造形ではない)されたものだと私もみたい。ここでは誰も論じなかったが、日本の仏教では、中国・韓国とは異なり造立を否定する立場があるわけで、造形を嫌うところに永遠のものを残そうとする意識が乏しい(山本)のではなくて、そのような形によてでしか永遠なものは垣間見ることができないという非常に日本的美意識と思想の深さがあるのではないか。

次に各論をいくつか見ていく。

座談会でも一躍目だった面白い論議を提出していた美術史家の水尾比呂志は、各論でも「紫ーその花と歌と心」(255頁)を提出して、飛び切り面白いことを書いている。ようするに私が指摘したように色の東西の比較論である。座談会で、どうして高階が印象派の色彩理論を話さなかったのかといったことである。

  紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも  天武天皇

紫の色調にも無限の濃淡深浅の段階がカマーユのようにあるとしながらも、これらの色というのは赤と青を混ぜることで得た近代の工法であって、根本的に紫草という植物体のなかで生成された紫の色素というのとは異なるのである。そしてこの紫草には揮発性があって近くに置かれたものに色移りするという性格から、そこに古代日本人の紫にたいする恋心を表す思い入れがあったのだと指摘している。また、赤と青を混ぜた紫というのは結局この二つの特性の対立が調和し終息していない、静謐性のない紫なのだと論じている。まったくこれは西欧にない凄い色彩論である。

安西二郎は、「金と銀ーその深層意識の変遷」(163頁)で日本の北山文化の足利義満の金閣と足利義政の銀閣を取り上げ、この変遷は仏教の禅の影響だという。また安西は、金銀は彼岸世界の地上での出店であった神社仏閣の内外を埋め、彼岸世界の荘厳や、豊饒の一端=余光を感受させようとして用いられていた。こういう中世の荘厳意識の美的感性を打ち伏せたのは世界に共通してみられるもので、織豊以降の神仏を真っ向から否定した信長の重用した狩野派の金のインテリアに投影されてくる、西欧ルネサッンスと共通するもので、禅茶の説くわび精神と結びつくものだと結論する。心理学者である安西は金から銀、そしてわびへの嗜好の流れに宗教的禁欲が影響しているとみているようだ。

国語学者の大野晋は、「日本語の色名の起源について」(187頁)で佐竹昭弘の「古代日本語における色名の性格」を取り上げて、古代日本語の色名のうち、本来的な色名と思われるのは、アカ、クロ、シロ、アヲの四種であるという指摘を古代の発音のアクセントの高低から割り出して証明している。そして大野はシロを除いてはすべて染料・顔料による命名であったとみるべきではないかと結論。勿論ここには佐竹の提出した論を論議しているので、水尾が座談会で話した、雪舟以前の墨が五彩を兼ねる意識があることや、五色のえのぐとして金をかぞえたことなどは話されてないのは当然だ。