2018年1月10日水曜日

中国の非民主主義を習近平に糾せなかったマクロン 仏共和政の仇

(パリ=飛田正夫)マクロンは何故 習近平に中国の非民主主義の弾圧国家の誤りを糾せないのか?「しかし中国の人権弾圧については人権の国フランスのマクロンは習近平国家主席には個人的に話したとフランスのテレビは報道している。」とマクロンの3日間の中国訪問の初日からテレビ報道されていた。最終日では、マクロンはこの件は個人的に習近平に話した方が効果的であり公的には話さないことにしたと答えている。パリ在住の中国人芸術家やフランスの人権擁護団体からは、マクロンが公開の場で中国の習近平に会いながら、そこで中国の人権抑圧を指摘し糾弾しないことが大問題になっている。どうしてかというと、フランスが世界に誇れるものは原子力でも芸術でもないのであって、それはフランス共和国の民主主義の問題が危機に立たされるからなのです。この民主主義の徳目の一つに共和国の政教分離(ライシテ)の精神があって、これを最近のマクロンはパリのマドレーヌ寺院でカトリック教会葬儀に大統領として参列してしまった。こういうことはフランスだけの憲法が許さないわけです。


宗教や思想の異なる人々が集まって仲良く暮らすために考えだされた政治的解決の現在では最良のものとして、フランスの共和国のライシテがあるわけです。その世界に誇れるフランス憲法の精神を、今度は中国で主張しなかったことはどういうことになるかというと、サルコジが金に眼が眩んでなのか?カダフィと手を握ってしまったように、マクロンが思想の部分で習近平に妥協してしまったということになってくるわけです。

そうすると実はそれは、フランスの民主主義の危機が近づいてきていることになるわけです。例え自分が不完全で貧人であったとしても、中国の国家主席に対してその誤りを言っていいのです。中国は出来ないが、フランスはできるのです。それがフランス共和制の憲法の凄いところなのです。相手の誤りを知っていながら糾さないということは、相手の誤りを承認したことになる。この歴史と伝統あるフランス共和国の精神を、マクロンは中国との経済取引に頭がいっぱいで眼が眩んで、忘れ棄てたのでしょうか。もうしそうだとすれば、マクロンはこのフランス共和国の仇であり、民主主義を死守する国民によって捨て去られるでしょう。(日本時間 10/‎01/‎2018;23:37)(仏時間 ‎10/‎01/‎2018;15:37)