2015年9月12日土曜日

ポール・ロワイヤル修道院の小史 イヴリーヌ県の歴史資料館に足跡を求めて

108段の階段を下りると12世紀のシトー派
だったゴチックの教会が再建されて
残っている。(写真撮影は筆者)
今日は、先日訪問したポール・ロワイヤル修道院についての資料を夏休み明けのイヴリーヌ県歴史資料館に訪ねた。16世紀からのフランスの歴史や考古学の資料が保存されている。パスカルの時代のパレロワイヤル修道院に関するものが何かあるだろうと思い出かけたのだ。いくつか面白そうなのがあったが、その中で興味深いのは「ポール・ロワイヤル修道院の壊滅とイエスズ会の勝利を彷彿させたことに触れた1713年もしくは1714年のヴォルテールの断簡」(IF14)と、「17世紀の宗教問題の比較資料とジャンセニストとイエスズ会士との論争」(IF190)と言ったものだ。この歴史資料館が紹介している「CISTERCIENTES ABBAYE DE PORT-ROYAL-DES CHAMPS A MAGNY-LES-HAMEAU」の1000頁には「ポール・ロワイヤル修道院の歴史」が簡潔だがわかりやすく紹介されている。(パリ=飛田正夫 )
それによると、「1215年にMathilde Garlandeが創立した。ポール・ロワイヤル僧院は莫大な財産と地位とをルイ13世、サンルイ(ルイ9世)、この土地のシュブルーズ、モンフォー、レヴィスなどの領主から受けた。

17世紀には有名になり、改革派ジャンセニズムの中心拠点となった。この時にポール・ロワイヤル僧院のAngélique Arnauldは僧院改革を企てた。

信者の数の増加と住居の悪化のために、1636年にパリに移転することがよぎなくされたのが、パリのポール・ロワイヤルだ。田舎のポール・ロワイヤル(PORT-ROYAL-DES CHAMPS )と町(VILLE)のポール・ロワイヤルの二つができた。

田舎の方にはポール・ロワイヤルの男達(les Messieurs de Port-Royal)と呼ばれる人々が住み、彼らに任されてしまった。

1648年にmère Angéliqueの修復作業により田舎のポール・ロワイヤルに一部の尼僧たちが舞い戻ってきた。この隠者(les Solitaires)と呼ばれた尼僧たちは納屋(Granges)の中に住みそこに学校をつくった。

1671年にパリのポール・ロワイヤルと田舎のポール・ロワイヤルが分かれた。田舎の方はジャンセニスト のメッカであった。1709年の弾圧の後の1711年に家屋の破壊がなされ宗教者たちの組織は散逸してしまった。ポール・ロワイヤルは17世紀の歴史・文学、ジャンセニズムに多大な重大な役割を担った」簡潔だが、大筋が良く理解できる説明だ。
クルミの木とパスカルの井戸。おくが納屋になっている。
(写真撮影は筆者)
ポール・ロワイヤル修道院の裏にある菜園。
薬草園もある。(写真撮影は筆者)