2016年12月25日日曜日

「隣人愛」を超えて 貧女が一子を「慈愛」する事とは

今日のクリスマスを前にどういうわけかフェースブックでの流れから、「隣人愛」について少し考えることになった。私などに隣人愛は難しい目標のように考えさせられていきてる。キリスト教の「隣人愛」との関連もあってなのでしょうか。自分が隣にいる他の人を愛するということは、一番身近な家族とか兄弟、両親や配偶者を愛せるかという問いでもあります。フランスに長年住む私の場合ですと、「隣人」を距離的なものとして考えると、それは肉親ではなくてまさに他人を愛せるかという問題になります。ここに親子の血の繋がりと、それが直接にないもう一つの「隣人」への愛の問題があると思います。‎

ジェリコーというロマン主義のフランスの画家が描いた「メデュース号の筏」(1819年)という大変に有名な大きな絵がルーブル美術館にあります。実際に在ったセネガルへ向かう海上で起きた仏艦船メデュースの遭難事故(1816年7月)の史実を基にして描かれていて、筏の上には149人が漂流していて、そこには食料は無かったのですがワインの酒樽が多数乗っていた。その為に酩酊し吐き気を催すような無秩序な惨事が起きたと言われています。絵の前景左に何処かで見たことのあるような赤い頭巾をかぶった年老いた人物が、若い青年を左膝に抱いて右腕を顔に持たせて考えている様な姿が描かれている。これはジャンバプティスト・カルポーの「ウゴランとその子孫」で昔しに彼の生まれたバレンシアンの博物館で見た彫塑の老人ではなかったのか。このジェリコーの絵の老人の前には多くの死体が横たわっている。餓えと苦しみの中に人食があったらしいのです。

オルセー美術館の一階ホールの真ん中にジャンバプティスト・カルポーの「ウゴランと子孫」の作品が置かれている。人食をテーマにした大きなブロンズ像で、よく見ると親が子供を食べている。カルポーはイタリアのフィレンツェに旅をしていて、ダンテの「地獄」で語られたウゴランの話しをテーマにしたという。これは13世紀のピサで政敵の大司教ルジエラ・ウバルディニに訴えられてゲスランディの塔に子供や孫までが幽閉されてしまった。そこの飢餓の為にウゴランは子供の薦めもあって、これを受け入れた自分が死ぬ前に人食したというのである。

ジェリコーの「メデュース号の筏」の絵では人食をしているのかは良くはわからないのですが、カルポーがジュリコーのこの作品を見ていたとすれば、これは理解できることなのです。私はそう思っているのです。

同じ人食でも、カルポーのウゴランでは親子の血の繋がりがあるのです。この問題は私の頭のなかでは直ぐに、ローマにあるミケランジェロのピエタの聖母子像(1500年頃)と、仏典にある「貧女が一子を抱いて大河を渡り途中で母子共に溺死してしまう」話しとの違いを思い浮かべてしまうのです。

キリスト教では、キリストは神の子だと言ってもそこにマリアとキリストとの人間的な性的関係を認めない。しかし聖母との間にはキリストは人間の子どもとしてマリアの胎内から生まれたわけで人的血縁関係があるわけです。

仏典の「貧女が大河を渡る」話しでは、ここでは只一つだけ言えば、貧女は産後間もない一子を抱いて急な流れの大河を命をかけて渡るのです。この一子の母ではあるが父親はいなかったのではないかと思われる表現があるからです。それはこの母親の素性と関係していて、だから「貧女」と呼ばれるわけですが本当は子のない女性が本当の貧女だという事も言えるのです。が、今回はこれは指摘だけに留めておきます。

さて貧女ですが、定まった家もなく流浪の旅に暮らしていて絶えず虻蜂毒虫に刺されて苦しんでいたわけです。ある所で宿屋の主人に子供を孕んだことが知られてそこを追い出され一人産をするのです。行く先を求め大河の畔までくるのです。ここで彼女は産後間もない一子と共にこの河を渡って別の国へ行こうと決意し、泳ぎはじめ力尽きて一子と共に溺れ死んでしまったのです。

聖母キリストの場合には、キリストは聖母の子としての存在なわけですが、貧女の子供の場合には素性の判らない一子なのです。

ミケランジェロのピエタ像の彫刻は、磔刑に掛かって死んだキリストの亡骸を抱き悲しむ母親の姿(ピエタ像)なわけです。母親は子の十字架に掛かるのを手をこまねいて傍観していたわけです。それで後に子の死を泣き悲しんだ像というわけです。

「貧女」の方は一子と共に溺れ死んでしまう。子を手放して自分だけで泳げば泳ぎ切れたのでしょうが、それを貧女はしなかったのです。最後まで子どもを手放さずにいたので、力尽きて共に死んでしまうのです。その一子を捨てなかった慈愛の深さによって、仏典では貧女は、母子共々に天に生ずることができたと日蓮大聖人はその著作の中で話されているのです。日蓮大聖人はこの「一子」とは生命の尊厳のことで「南無妙法蓮華」のことだと言われていたかと記憶しています。

私が「隣人愛」で思うのは、ひょっとして不実な愛で生まれた子供でも、女性が捨てずして他人への愛を超えて真実の慈愛を持つことが出来るということを示された御文ではないかと感動しそこに女性への尊厳を感じるからです。

ピエタの方は自分の子供を見殺しにして子を捨てた母親の悲しみなのだと思います。ですから「隣人愛」をキリスト教的にみると、母親の盲目の悲しみとそれを導いた愛を認めてしまうことになるのです。そこに救いがないわけで、女性を運命に随う力ないものとして蔑視して見ていることにもなってしまうのだと考えるのです。これらの先に女性の成仏の有無が予告されているのを感じるのです。

宗教から人間をみるとわからなくなりますが、人間から宗教を見るとそこにキリスト教のような人間観の蔑視があったことがわかるのです。仏典でも小乗や大乗の誤った理解では女性は成仏しないことが説かれている。女性は男性と差別されているのです。やはりそこのところは現代の女性解放という中では同様な限界があると思っています。理由はそういった宗教には人間の苦しみや悩みを解決する力がないということです。それで私は「愛」と「慈愛」と分けて考えてみているのです。ヨーロッパのキリスト教を基にした芸術・文化とはその前者の「愛」をテーマにしたもので、「慈愛」の女性・或いは母親は語られてないと思っています。‎(日本時間 25/‎12/‎2016)