2011年3月24日木曜日

【ルポ 後編】ヴィクトル・ユゴー文学記念館で仏創価学会の青年がボランティア活動なのか?

後編(1) ルポ ヴィクトル・ユゴー文学記念館


( 「ルポ前編」ビエーヴル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学館 )



(1)学芸員ステファンの疑い


フランスのビエーブルにあるヴィクトル・ユゴー文学館の敷地内にある喫茶店で訪問客にお茶の給仕をしていた学芸員ステファン氏に会った。彼は喫茶店の厨房から上気した赤い顔で私の前に突然に現れ出た。そして「少し変だ、何度もここに来るなんて、もう今月で三回目だ」とかなり大きな声で私に唐突にいった。そして「あなたは、何度も同じものを見るよりは、パリのボージュ広場のユゴー記念館や、ノルマンディーのビルキェー(娘レオポルディーンヌの家がユゴー美術館になっている)などに行くべきではないのか」といった。


「図書館で本を調べたほうがよい」、「ユゴーの著作を研究したほうがよい、来る必要はない」と続けて話した。私の訪問に酷く懐疑を抱いているのがわかった。それは何故なのか。



上ノルマンディーの首都ルーアンのセーヌ川下流右岸にあるビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館。庭の中央にはVHの彼の頭文字が見える。レンガや迫り出し窓の多いノルマンディー建築。この建物の前をセーヌ川が流れている。


ヴィクトル・ユゴーの娘レオポルディーンヌが若くして水死した辺り。海の水が逆流してセーヌ川を遡行するマスカラ現象で溺れたといわれる。伏流が起こり水蒸気が立ちこめる危険なものだ。ビルキェーのヴィクトル・ユゴー美術館は写真右奥のセーヌ岸右岸にある。



私は「今後も、あと少なくとも二、三回は来ようと考えているのです」といった。この言葉に彼は、「何かある、変だ」と声にだした。まるで、彼は「もう来るな」といわんばかりであった。


私は、「物を見るということは最低三回は見ないと見たことにならない」そうでないと、「見ているようでも何も見てない場合が多い。わたしたちは盲目である場合が一般的だ」、また「いくら本を読んでもそこに真実が書いてない場合も多い」と彼にいった。


彼は私の返答が気に入らなかったのか不服であったようだ。そのままステファン氏は外に出て行ってしまった。かたわらで私たちの話しを聞いていたガイド氏は静かに表情を変えないで一言もしゃべらずに座ったままだった。もともと口数の多い人ではないらしい。どちらの立場の擁護もしなかった。




ガイド氏と話したビエーブル渓谷のヴィクトル・ユゴー文学記念館の別棟に立つ小さなカフェ。
ガイド氏は私にコーヒーを煎れてくれた。ユゴー文学記念館のシャトーの絵柄のある綺麗なコーヒー・カップと、シャトーの庭から摘んできたという黄色のスイセンが活けられた白い小さな花瓶を前にして私達は九〇度の角度に対座していた。


ガイド氏は、ピアノやテーブルの上の花瓶の花は創価学会の女子部員がヴィクトル・ユゴー文学記念館の庭から摘んできて生けたと話した。コーヒー・カップにはユゴーの特徴あるサインが入っている。この署名スタイルはユゴーの晩年のもので同館のロゴにも使用しているのだと教えてくれた。
セザンヌがマルセイユ湾の海を描くのにどのようにして海面を平らにして見せたのか、その技術の発見をしたときの感動がどんなであったのか、セザンヌが描いた彼の絵を理解するには何度も見ることによってしか私たちに発見のないことを話した。


男性が門の外までやってきた。検問所の金バッチをつけた青年部が呼んだらしい。


ステファン氏は前回に来たときには、私が館内を案内してくれたヴィクトル・ユゴー文学記念館の学芸員であった。今回もサラリーマンのように背広姿でネクタイをつけていた。その姿でお茶をサービスしていたのは不思議に思われた。どこか似合わないのではとおもった。身体に比べるとかなり頭部の大きく感じさせられる人であった。顔色はやや赤く表情はこわばっていてあまり笑わなかった。

彼は、今日はパリの南近郊のサビニー・シュール・オルジュ市の観光局から送られて来たという高齢者のグループの訪問があったのだという。このグループには観光局の係員らしき人が付き添って来たので、そのためにステファン氏の館内案内が臨時休業になっていて、カフェに出ていたのかもしれない。

日本人のガイド氏は、私たちは館内の案内から庭の草刈、喫茶店の接待と何でもするのですと話す。みんな一生懸命にやってくれるのですと話した。

そんなに働いているのだから、給料はさぞいいのだろうと聞いてみた。すると答えられないという。最低賃金(SMIC)よりはいいのではないかと質問したが、答えはなかった。

学芸員も警備する青年部員と同じく背広姿できちっとしている。ただ私には、ガイド氏のように普段着であったほうが、ボランティア活動で何でもこなすには自然であるように思われたのである。



ヴィクトル・ユゴー文学記念館の門前に待機して訪問客に入場券を売っている。この青年部の活動は検問や警備の意味があるのだろう。私の友人を知っているというブルターニュやパリ近郊から来たという創価学会の青年幹部が担当していた。

ビエーブル市はパリのノートルダムからは南西に15キロの町だが、周辺は山野の樹木に囲まれた驚くほど緑が多い鄙びたパリ近郊の田舎の風情である。昔からパリの貴族達やプロテスタントの隠れ家であったといわれている。


ビエーブルの隣り村「ボーボイェンの水車」と呼ばれる集落にはオーベル・カンプの家族が住んでいた。近代では画家のアトリエとして使われていて藤田の作品が壁に書き残っているともいわれている。最近までは集会所や音楽教室につかわれていた。


17世紀に太陽王のベルサイユ宮殿の御用達となったプロテスタント教徒であったオーベル・カンプのプリントの印刷生地は世界的に有名になった。それはベルサイユ宮殿から南に三キロほどのジョイ・アン・ジョザスの村に工場があった。ヴィクトル・ユゴー文学記念館のあるビエーブル市からは西側の隣町である。


川を跨ぐ小橋の垣根に残る太陽王の徽章が見える。後代のものだが美しい。ユゴーの「秋の枯葉詩集」にでてくる浅瀬は、このボーボイェンの水車のあった集落あたりのようだ。


現在のヴィクトル・ユゴー文学記念館からは300メートルほど上流のビエーブルの隣り村「ボーボイェンの水車」と呼ばれる集落にはオーベル・カンプの家族が住んでいたが、彼等は村のカトリック協会の墓場にははいれずに自分の家の庭先に先祖の墓石を建てて埋葬していた。いまでもビエーブルの小川の岸沿いに彼らの長方形だったり円柱だったりの特徴ある墓石がいくつか並んでいる。


オーベル・カンプの家族の墓が庭の中にあるジョイアン・ジョザスの町。写真の橋の下をビエーブルの川が手前方向に流れている。
この辺りは「首吊りの男」とか、「神々の岩場」とか、「地獄の丘への小道」などといった少し聞きなれない名前の小高い丘がつづいて南斜面のビエーブル渓谷を形成していた。

(つづく)

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