2014年6月13日金曜日

「旧約聖書における集団と個」H.W.ロビンソン著 船水衛司訳 (教文館 昭和47年)を読む

「旧約聖書における集団と個」H.W.ロビンソン著 船水衛司訳 (教文館 昭和47年)は、以下のような三つの論文からなっている。「ヘブルの集合人格概念」 「イスラエルにおける集団と個」 「旧約聖書神学」である。こういう本は普通は、論理的な筋はなにもなく物語りがあって、これを理解することは信じる以外には方法はないのだと思われがちだが、ともかくどういうものなのかと読んでみた。私の知っていた分散的な知識やわからなかったことなどに連携ができ繋がりをみせてきて面白かった。いくつか例を挙げる。

旧約聖書のイスラエルの神は、異教の神々をヤーウェ神の天使の一群に落とし入れて、ヤーウェ神を絶対神=見えない神が、ヤーウェ神=人格神として姿を表してきた。

「生きた神」ではなくて「生ける神」として預言者モーゼは救済と贖罪というユダヤ民族の集団神をヤーウェの「神」=イスラエルの「王」という人格神の姿をとって現せてみせた。

個人と社会との関係では、ルソーやプラトンを主観主義的個人主義者として個人と社会と国家は連続していて拡張したものだとロビンソン氏は見ている。


これに対しヘブル心理学という見方では心理主義ではなく個人は社会へと肉体的なからだの各器官間の関係に見立てていて、一種の有機体的な認識になっている。
 ロビンソン氏はこれを一つの「連合国家」であったという。その根拠は、「アダムは自分に似せて、自分のかたちのような子を生み」「神とかたちが似ていた」という聖書の言葉は、ヘブル心理学では心理ではなくて肉体的器官の類似性のことだと認識しているからだという。

神が人間に見えないことは神が無形であるということを意味しない、ただ人間の目には神の輝くすがたが見えないというだけだという。その場合に誰も神など見た人はいないのだから、もちろん神の輝かない姿などは見えないのである。だから人間を神に似せてつくったというとき、同時に神を人間に似せて描くことになったということができるのである。キリスト教の本質とは神は人間には見えないので、夢で見たということである。現の世界の神はその夢からつくったものなのである。


ユダヤ教の神観は、ヤーウェ神は自分で自分を最高だとして一方的に自己「聖別」して神になったという論理だ。「聖別」が他との分離と特化にあるわけで、「法廷的」な性格にある「裁き」と「判決」を導くのである。この「神」と「民」との「契約」が「義」で、この「契約」から「それること」や「逸脱」することでヤーウェ神の救い「義」が得られなくなるとしている。

この「神」と「民」との「契約」を成立させているものとは、見えない神を「信じ」て「頼る」ことで信頼のことであり、服従することだという。見えないものでも信じて神に「服従すること」が旧約聖書の主要な特徴となっている。これは盲目の徒といった感じで少し理解が難しくもある。

ヤーウェ神と民の関係だが、つまり神とイスラエル人との関係だ。 自分が最高神だとしてシナイの「契約」によって、ヤーウェ神がイスラエルの民(神の子)になったというのは、イスラエル人を「選んだ」という選民の原理はこの「契約」によったということなので、おそらくそれは、「養子縁組」によったということだろう。他の者からイスラエル人を選んだからで、その神と人の間の「血盟なのだ」という場合の内容は、まさしく「血縁」のことではない。エジプトから、「養子縁組」で呼んできて「契約」をしたのだといえる。

旧約聖書での人間と神と自然との関係は、自然は神の従属物であるが人間は神に似せてつくられたものであって、従属してない。この「似せてつくった」というのは、「神と同じくつくった」ということではないからだ。だから人と神の関係は、「契約」であり「養子縁組」の関係なのだと考える。

ロビンソン氏は、イスラエル人は、肉や血からなる肉体=からだのよみがえりというかたちをとったので、死後の生を、「魂」とか「霊」のようなものとは捕らえてない。人間が、神の「魂」や「霊」のようなものが個人に吹き込まれて死後の運命という精神的な要素として捕らえるようになったのは、捕囚期以後のことで、これがユダヤ教からキリスト教へ移行展開していったイスラエルの個人主義概念の重大な点だとみている。