2016年2月2日火曜日

「聖書」夢託宣の魔術とエジプト軍溺死の秘術は キリスト教選民思想と地方神エゴ

アブラハムは100歳にもなって外国へ行ってあなたの子孫を増やすように神に言われたわけだ。外国でサラとの間に男の子イサクが生まれた。現実的にはこのような結婚ははたして幸せであるかどうか考えなければならない。子供は成人する前に父親は死ぬであろう。キリスト教は信者を増やすことが第一目的で、信者の家庭のことは二の次にされている。また同様に、財産家のヤコブには12人の子供がいて、その11番目の息子ヨセフを溺愛していた。兄弟たちはこれを憎んだのかエジプトに戻る商人にヨセフは売られてしまう。エジプトの金持ちに売られたヨセフはそこで悪者にされ牢獄に入れられる。王の家来2人が夢の意味で困っているのを解いてやり、また王が見た夢の意味がわからないといって、これを解いてやる。ヨセフはその夢の意味は7年間に渡り穀物が取れるがその後の7年間は全然取れなくなることだと宣言する。これはある種の託宣であるわけです。こういうことをキリスト教はいうわけです。


このヨセフの話を聞いた王がヨセフを大臣にして穀物を蓄えたので、飢饉に会うことを避けることができたが、他の国では大変に困ることになる。この王とヨセフの思想は世界に差別をこしらえるもので、本当ならエゴにならずに初めから隣国にも困らないよう知らせるべきであったろう。

しかしそれは「夢判断の託宣」でしかなかったので、予言でも結果を見てしか真実は確証できないものであったということだ。これは原因が不明でその結果との因果性に確実性がないからである。キリスト教は夢の宗教なので現実が本当はどうなるかを予測ができないのである。だからヨセフは王に誰か賢者を探して大臣にして、その凶作の準備をしたらよいでしょうと提言したわけだ。これは夢の託宣を自分が大臣になって叶えてやるという話なのである。王というのは本当は天と人と地を縦に貫くのが王なのであるが、この間抜けの王は信託を行う予言者ヨセフに国の政治をまかせてしまったのである。

本当にキリスト教に力があるのであるならば、7年間の凶作を稔りある年にできたはずだ。また人間に力を認めるならば大臣としてヨセフは夢の信託を覆し、14年間にわたり豊作を実現できる政治ができたはずである。それを何故しなかったのかが問題である。7年の間は穀物は取れませんというのではなくて、この取れない7年間を逆に取れるように何故できないのか?このようにしか考えられないことがキリスト教の限界だということなのだ。

ヤコブの子ヨセフなどの子孫はイスラエルの人々と呼ばれていた。この一族がエジプトで増えて恐れられていて、イスラエルの男の子供を川に投げ捨てよという命令が出た。この時にある母親が子供を川の畔に隠していた。これを通りかかった王妃が見つけ拾ってモーゼという名前をつけ王宮で成人した。モーゼはイスラエルの民の奴隷状態を救う決心をして、王に進言するが聞き入れられない。神が出て来てモーゼを助け、エジプトに災害をもたらす。

そういう中で、モーゼはエジプトからイスラエルの人々を連れてカナンの地を目指して出て行く。紅海を前にしてエジプトの軍隊が追撃してくるが、この時に後悔の水が真ん中から分かれて道ができた。イスラエルの人々が渡り終わると水は閉じ、後から追ってきたエジプトの軍隊は水に飲み込まれて溺れ死んでしまう。殺人の奇跡を起こしてまでイスラエルの人々を救う宗教は何処か選民思想があって差別が感じられる。エジプト人を殺害したりエジプトに災害をもたらすこの神は、単なる一国一地域の利益だけを考える偏狭なエゴイズムの地方神でしかない。