2017年1月12日木曜日

末法現代と根茎枝葉の枯れた枯槁(ここう)の衆生の救済

末法・現代というのは人間は根が切られる運命に遭遇しているのではないかと考えるわけです。「江南に移された橘は殻たちとなる」という「御書」があります。この、日蓮大聖人の『御書』を元に少し考えてみました。あらゆる植物は根茎枝葉を持って生き栄えていくのですが、この一つでも欠ければ枯れてしまう。しかし、根茎枝葉を備え持っている者であっても法華経不信の者は、「余教を以て種と為さず」「御講聞書 一枯槁衆生の事」(平成新編1841頁/御書全集827頁)とあり、 栄え生き延びることは無く枯槁(ここう)の衆生となってしまう。しかし、法華経の題目を信じる人こそは、譬え根を切られても枯槁(ここう)の衆生とはならない。釈迦の脱益仏法に傾斜する創価学会の仏観では世界平和などを唱えてみても、日蓮大聖人の唱えられた本門の大御本尊の下種を否定し見失っている為に、末法現代に生きる根の枯れた全世界中の枯槁の衆生を救うことは出来ないどころかそれが逆効果になり世界中に三災七難、天変地夭・飢饉疫厲が蔓延する原因となっているのである。


理由は、法華経の肝心は日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の題目にあってこれが末法現代の下種となっているからです。釈迦仏法にあっては根を切られてしまったのならばそれで終わりで枯れてしまうのです。そこに釈尊の脱益(だっちゃく)仏法の性格があって、これと日蓮大聖人の下種仏法との相違があるからなのです。そこに因果の建て方の違いがあり、種を植えるのか種を植えないで収穫だけを求めるかの違いでもあります。

「江南の橘の淮北(わいぼく)にうつ(移)されて・からたち(枳殻)となる。」「南条兵衛七郎殿御書」(平成新編324頁/御書全集1495頁)、「根を移されし橘の自然にからたち(枳)となりけるも、身の上につみしられたり。」「法連抄」(平成新編821頁/御書全集1052頁)。これ等の御文は、釈迦仏法での理解では随方毘尼(ずいほうびに)で、土地の習俗に合わせて法を説くという随他意を立てる布教法を指すわけです。従って教えに嘘や方便が多いのです。ですからの橘(たちばな)は枳殻(からたち)になってしまうのです。そういう布教法の中には日蓮大聖人の仏法である下種の根は無いのであると云う事なのです。これを誤ってフランスやヨーロッパの創価学会が主張したのが、「随方毘尼」論の種を植えないで収穫だけを求める本果妙の主張だったのです。ですからフランスもそうでしたが「折伏」を嫌ったのです。文字はあっても中味を翻訳次元で意味を摩り替えていたのです。

池田大作の次男が言うのには、「先生は、ヨーロッパは文化も歴史も違うので日本のようには「折伏」はできないといっている」と私に話したのです。この方はまだ若かったのですが、その年の秋に腸の病気で亡くなってしまったのです。
戸田の獄中での「無量義経」読誦からの悟りは「法華経」の悟りだったのだとして嘘を構えたのです。戸田城聖の獄中での「法華経」ではなく「無量義経」読誦による悟達を基にして創価学会は生命論の原点としたのだが、この「無量義経」の経典というのは、釈尊の教えの範疇では四十余年の説法であって未顕真実の教えだったのです。

これを継承した池田大作の生命論などに搦め捕られている創価学会員などは、法華不信の人であって根茎枝葉が一応ついていても、それは開花、成長のない「枯槁の衆生」になっているわけです。「所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、」とは成らない法華経誹謗の人々なのです。