2014年7月7日月曜日

「随方毘尼」の間違いやすい視点・・・「にっぽん部落」(きだ みのる著 岩波書店1967年)を読む


「にっぽん部落」(きだ みのる著 岩波書店1967年)を読む。この本の書き手はフランスの人類学者の翻訳などで有名な山田吉彦氏である。学生時代に一度読んでいたのだが社会や組織と個人を考えることで再読した。非常に気になる本である。ひとつは部落というその対象だ。もうひとつは著者が伝統的な部落という小集団に現代組織との相関性を見ていることである。その人間社会の平等性や主体性ひいては民主主義 の実現の可能性として部落という場を考えていることだ。

部落で世話役の面倒見切れる縛りは15軒ぐらいだという、このような規模の問題は都市の民主主義 を考える場合でもいえることだ。著者は現代社会が過剰支配と取り締まり超過であること、つまり社会の個人への管理や過剰抑圧を指摘して相対的に部落における自治の存在を評価する。

その理由として一箇所だけ書いてあるのが、日本の管理構造は町そして村までで、それ以下の部落までには及ばない組織であると指摘していることだ。そうするとこの部落は無法地帯かといえばまさしくこれが自治で、この本はここに日本部落の二面性ともいえる特徴を指摘しているわけである。この部落の世界では市民社会とは別の4つの法律(掟)が支配しているという。国の犯罪も、この部落では犯罪に当たらないのであって、そこが部落を見えなくしている原因でもあるという。著者はそういう部落の中に同居して長年に渡る現場観察を材料にして書いているので臨場感のあるレポートとなっていて大変に面白く、なかなか簡単には書けないよい本だ。

部落における支配の問題では、私がすぐに疑問に感じたのは、世話役や親方はなぜそんな面倒な役割を無報酬で引き受けるのだろうかという疑問であった。この答えが解けたのは、本書の最後の頃になって書かれている。わたし流にまとめると、世話役や親方が享受する外部社会からの賄賂や礼物に対し、部落の平は世話役の普段からの恩恵を認めて、賄賂などは当然のものだとして犯罪視せずにその正当性を認めていることだ。随って服従している姿が不自然ではないということでありそこに説明を必要としない納得した恭順性が存在している。

問題は、この非常に理解できにくく、実現の可能性の危うく思われる部落の自立構造が、どんな風にして管理社会へと繋ぐ回路が成立するのかということである。わたしが昔読んだ話に次のようなものがある。世を捨てて陰士となって山中に暮らし茸を採って生きていた二人がいた。これが都から来た官史にあなたの今食べているのは国王の物だと咎められて、二人は茸を食べるのを止め死んでしまったという問題だ。きだ氏のこの本の中でも人の所有地から茸を盗んで来て売って生計をたてている部落民の話があった。この二つの世界の関係はどうなっているのか、この問題はわたしの昔からの解けない謎であり疑問でもある。きだ氏もこれに詳しく答えてない。

小集団と大集団をめぐり、部落は有機体的社会ときだ氏は見ているようだ。この本の全体を貫く問題意識を、きだ氏はこれだとは言ってないが、わたし流に一言でいえば「随方毘尼」(ずいほうびに)という戒法の非常に間違いやすい使い方の問題でもあった。