2014年9月14日日曜日

因果応報のシステムを人間が食い蝕み破壊-「パラサイト社会のゆくえ-データで読み解く日本の家族」山田昌弘 著を読む

「パラサイト社会のゆくえ-
データで読み解く日本の家族」
山田昌弘 著 (ちくま新書495)
この本の一番面白い所でもある年金制度を書いた箇所というのは、実はこれは仏教でいう因果の応報観念が崩れてしまったということだと私なりに読んだわけである。別の言い方をすれば人間社会で年金制度というのは地上での因果応報観の代行システムとして制度として人間の手で操作されたが、それが行き詰っていて、青年たちはまじめに努力して働けば報われるとは考えなくなってしまっているということだ。だからパラサイトの本当の意味とは、この因果応報のシステムを人間が食い蝕んで破壊していることなのだと私は読み変えたいのである。

日本社会がパラサイトつまりパラジィットされた寄生社会であると著者は説く。ようするに長い間親にスネカジリしている子供のいる家庭を指して言っているようだ。これは人間なのでしょうがない。犬や馬ならば生まれてすぐに立ち上がり走り出すのであろうが、人間は長年にわたり親の養育がなければ育たない。それは場合によっては20年であったり30年だったりするわけだ。わたしはそういうのはパラサイトとは言わないのではないかと思う。

山田氏は、ここで次に引用する話をパラサイトだとは言ってないが、これこそパラサイトというべきである。「たとえば、月収50万円くらいの60歳のサラリーマン男性と20歳の女性が結婚し(再婚でもよい)、男性が65歳で亡くなると、その女性は働かなくても、月20万円程度の遺族年金が一生支給される。単純に総額を計算すると、5年間結婚した代償として、平均寿命が85歳だとすると、20万×12月×60年=1億4千4百万円もらえるのだ(私が見聞きした中で20代の外国人女性が高齢の日本人男性と結婚し、数年の結婚生活後に夫が死亡、妻は出身国に帰り、未成年子加算分も含め年200万円程度の年金を日本から送金してもらい、物価の安いところでリッチな生活を送っているというケースがあった)。」(164頁) 

どうしてこれをパラサイトというかというとこの場合の女性の受ける厚生遺族年金が常識外の異常な金額だからである。さらにこの女性の話は、「努力すれば報われる」という因果応報観を破壊させ無視することになっているからである。このような年金システムを許していることが問題ではあるが、この女性は幸せであったのか?またその後帰国して幸せでいるのかという問題が更に問われなければならない大切なことであるはずだ。因果応報観にはこうした金銭面だけではなくて、人間の幸不幸の問題も厳しく連動しているはずだからである。

山田氏は日本の夫がサラリーマンで妻が生涯専業主婦という「モデル家族」の変化と生活形態が将来的にどういう変遷をたどるかの予測ができなくなってきていることを問題視する。そして「これから社会に出ていく青少年が希望をもって生活するためには、努力が報われる見通しが必要である」(180頁)と説く。

今では、「努力すれば報われる」「勉強して将来豊かな生活を築くというルート自体が崩壊している」(181頁)といっている。

これは因果応報の世界観が崩れてしまったということだろう。そういう因果の見通しが崩壊しているのだということだ。しかしながらこの原因と結果の連動性はキリスト教社会では成立しにくい話しで、驚くべきことにどこかでこの因果が切断されてその関係が結びつかないのである。だからまさしく突如としての世界が横行していることになる。日本もそのようになってきたのではないのだろうか。前掲の年200万円程度の年金を日本から送金してもらっている女性の話しとは実はそのような因果の連携が破壊された納得しがたく受け入れがたい事件なのである。

小乗仏教でこの因果の応報観というものを説き、因果のわからない人々に教えたわけだ。それ以前は親子の礼もなく恩ということも知らなかったわけで、人間行為の因果も地上の現実世界で完結する閉じられたものでしかなかった。

「親や配偶者、大組織にパラサイトして、うまく立ち回って楽に豊かな生活をしている人をみてうらやましいと思ったり、そうありたいと思う大人が多いのではないだろうか」(184頁)と山田氏はいうが、そうではなくて、あるいは逆に努力する人が正当な評価があったとしても、それは人間が作り上げて、人間が評価するという自己相対的な社会の褒章や罰であるということからすると、故国に帰国した例の女性がどういう因果なのかしらないが多額の年金を受け取ったわけだが、だからといって必ずしも幸せかどうかは判別できないのである。

これを考えると彼女は一応はパラジットだということができると思うが、再応の解釈では過去から現在そして未来の因果の中に存在したのだとも展開できるのである。この場合には彼女はパラサイトでは全然無いことにもなるのである。

彼女を羨ましがる者がいるとしたらそれは地上世界だけの救済を考える人間社会での年金制度に毒されているからだろう。実は人間がそういう世界だけでは救いきれない大きな時空間の中に存在していることが問題で、それを救済の遡上に乗せなかればならないということが忘れられているのだと思う。だから青年の努力が報われないということになるわけだ。青年の報われない努力を救済の遡上に乗せるということは、現在の福祉や年金制度を包みなおせるパラダイムが必要だということである。

ただ、現在我々がいうところの、「努力すれば報われる」という因果論は、老後が年金で経済的に保障され約束されているという現実世界のしかも物的救済なのであって、本来の人間存在の救済を目指す因果律とは実は全然異なったものなのだ。