2014年9月13日土曜日

福祉と宗教の日本社会での落とし穴 ・・・「忍性と福祉の領域に関する一考察」日高洋子 「タイ国における伝統的家族介護と高齢者福祉」酒井出 ・・・ 二論文を読む


忍性と福祉の領域に関する一考察」日高洋子
 埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第9号
(145頁-158頁)





「忍性と福祉の領域に関する一考察」日高洋子 埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第9号(145頁-158頁)を読んだが、一読して非常に驚いた。それは他の福祉に関する論文で、「タイ国における伝統的家族介護と高齢者福祉」酒井出(時潮社 2014年所収382頁-399頁)の論文をその前に読む機会があり、そこでも宗教と福祉のつながりが指摘されていて気になっていたからである。忍性(良寛坊)やタイ仏教などの小乗経の教えが、人々に信仰され、傍目には良い事のように見えるわけだが、これはその場その場の問題に応急処置をして人々に受けているのであるから、これを主張し実行する立場の人というのは確かに「慈悲ある上人」とも尊称されるわけだ。しかしこれを「いつわって慈悲を現ずる人」といったり「慈悲魔」といったりもするわけである。日本の高齢化社会と福祉の需要増大は必然的だという背景がそこにはあって、両論文の共通点は日本社会が要請する福祉の必要性に答えることを狙っているように思える。つまり、福祉のあり方を日本社会での機能性からさぐっていることだ。私なりにこれを表現しなおしてみると小乗的であり随他意の救済ということになろうか。大乗の国である日本には通用しないだけでなく、それを使えば返って悪くなるということである。ここに健康な人に薬を与え粥を食べさせるような落とし穴がある。

タイ国の社会で男の子ではなく、女の子供が、特に末娘夫婦が最終的に両親の面倒をみるという背景には、タイ小乗教の世界観が大きく反映している。これは確かに両親の老後にとっては都合がよいシステムだろう。日本では小乗の「女人不成仏」の教えや「変成男子」の女性観を乗り越えた大乗仏教の思想があって、男女の平等が法華経で初めて説かれているわけである。いまさらタイ小乗仏教の差別観からなる養護システムや、忍性(良寛坊)の仏教まがいの救済論で福祉を捉えてみたところで、これは日本社会の福祉のあり方に逆行するものでしかないと思えたのである。小善をもって大善を撃つ事は仏法の禁戒であり良寛坊はそれを知っていたはずである。

論者が書いているように小乗の教えというのは、橋や療養所や道路を作るのである。公共事業のようなことをやって人の欲するものを人々に与えるわけだ。同時に金儲けもやるわけで、金銭感覚が鋭いところも当然のことあるのだろう。しかし人々の欲しているものとは、いってみれば即物的で即効性のあるものが多い、だからか道路の補修や流された橋を作り直してみたりする。ついでに通行税を取ったりもする。しかし人々の福祉とはそういうものだけを指していうのではないのだということを考えなければならないだろう。

両論文ともに気になるのはタイの小乗経や忍性(良寛)の「慈悲魔」の教えを衣拠とする福祉概念というのは、それは所詮は人々の心を説いた随他意的なものであって、人々の欲するものが変わればその手段もまた変化するということだ。だから福祉が社会の差別や不平等の不均衡を一時的に補完するものでしかなく、そこでは問題の根底的な解決を目指したものではないということなのである。


 【参考記事】


http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol9/human/12_hidaka.pdf