2016年2月7日日曜日

フランスの「国籍剥奪法」論議 悪は善を破れないが 小善が大膳を破る 

(パリ=飛田正夫2016/02/07 9:13日本標準時)この「国籍剥奪法」が問題にされているのには、世界の人間存在に関する理解と解決が行き詰りを見せているということがあるのでしょう。総ての人間を国という壁では平等に扱えないという限界の壁が明らかになってきた。ヨーロッパは特にフランスにあっては移民・難民や国境を越えてのテロ襲撃事件で排斥や受け入れの思想だけでは解決できない内部からの反乱という国内事情があって、「国籍剥奪法」の修正が問題になってきている。ヨーロッパの民主主義が平和時の封鎖体系での理想でしかなかったことが暴かれているのだと思います。メルケル独首相も国民が難民受け入れを反対し出してきて、その声が高まっているために、難民の受け入れに悲観的になっている。今年は去年のように100万人も受け入れは無理でしょう。それどころか、これまで受け入れた分も含めて、彼らを追い返すことになると思います。彼らに希望を持たせて於いて自分の方の都合が悪くなると態度を変えるのです。だからこれも大変な人権違反の事件なのです。目先の事しか見ない、あるは見えないジャーナリストがメルケルを囃し立てていましたが、彼女は今苦しんでいるでしょう。人を救うなら最後まで救いきらなければならないでしょう。つまり因果を知らないヨーロッパのキリスト教的慈善思想に毒された偽善の行為だったのです。悪は善を破れないのだが、この小善が大善を破るのです。

ケルンでの年末から年始にかけて起こった婦女暴行事件は、移民のせいにされているよういだが、事実はもう少し別なのかもしれない。これを傍観していた警察がいたとの情報もあるのです。フランスのテレビやラジオも非常に変になっている国営放送などもあるように感じられます。仏外相ロラン・ファビウスの息子がラスベガスのカジノでの犯罪が取り沙汰されていますが、これは親とは無関係な筈です。オランドの片腕であるファビウスをもぎ取ることでオランドを落とし入れるためでしょう。これをテレビ・ラジオは熱を上げてがやっている。成人した息子の犯罪は親とは無関係なはずです。

移民・難民がフランスでまたヨーロッパに来て何故に尊厳されなければならないのかという問題でもあるのだと思います。国家や民族や国境を越えての人間の尊厳が問題になっている。それを国境の壁で追い返すこれまでのやり方ができなくなってきたということです。その流れに対抗する「国籍剥奪法」というのは有効ではないということです。
フランスは、11月13日夜に起きたパリの同時テロ射殺事件を期に世論が大きく右傾化してしまった。そのためにエコロジー・緑の党のセシル・デュフロさんが指摘するように、オランド仏大統領の進める「国籍剥奪法修正」がデュフロさんが批判するヴィッシー政権の人種差別主義ではないとしても、サルコジやペンの極右派系国民戦線(FN)と非常に相似した危険な姿に、左派の人々には見えてくるわけである。

サルコジとオランドとの相違は、ここで移民の人権を認めるか認めないかにあるようだが、より危険なのはサルコジの考えかもしれない。オランドも世の右傾化を理解しないと2017年の大統領選挙で負けてしまう。そういうファシズムへ雪崩れ込む一歩手前の、怖い危険な場所にきてしまっている。両者は組み合っての土俵際での戦いになって来ているということです。そこにどういう切り返しの技がオランドにはあるのか、今の所は移民切り捨てのサルコジの人種差別思想を、人権の尊厳の側から叩くことだけしかない。この線引きをどこまでオランド大統領が守れるかは非常に難しい。それは、止まることなく急増する中東やアフリカからの移民・難民で、ヨーロッパやフランスの国境や国籍がますます脅かされてくるからだ。

オランド大統領とバルツ首相はこの移民の流れの元凶を塞がないといくら移民・難民を受け入れても切りがないという考え方があって、その元凶をサルコジのリビア空爆とその後の経済復興にテコ入れし援助しなかったために無法地帯と化したリビアは地中海を渡る難民の集積地になってしまった。

おそらくはオランドは、シリアの独裁者アサド大統領とロシアのプーチン大統領とのサルコジの馴れ合いが、シリア人民100万人の流民・難民と20万人以上の死亡者を出したと認識しているわけです。ですからフランスはこの独裁者アサドの国外退出を要求しているのです。

悲しいかなヨーロッパの政治ではこれを止めるのにダエッシュ=イスラム主義国家テロリスト組織(IS)を叩き空爆するほかないのです。「難民」の受け入れというのはドイツのメルケル首相にみるように自分の国の生命線を懸けてはやらないのです。いざ自分の身が危うくなると移民・難民は切り捨てにされる。そういう近代のキリスト教的西欧のヒューマニズムでは人間は救えないのだと思います。そこに受け入れる側との差別が現としてあり、人間としての不偏の平等がないのです。