2015年7月5日日曜日

キリスト教の「人権」や「抵抗権」が差別主義の域を出ないのは、「神」に反逆しないから

キリスト教思想の日本憲法への影響を論ずるにもその起草に関与した人間がキリスト教信者であってそれでキリスト教が影響したと言う点を主張する論者がいるが、「どこがどう」影響したのか?「抵抗権」と言っても神に「抵抗」するキリスト教徒はいないので、キリスト教それ自体に「抵抗権」の源泉を求めるわけにはいかない。それで、「神」「王」「人」の間で、王権神授説みたいな二重の構造を立てて、「抵抗権」をキリスト教起源のものだと無理に考えているようだ。しかし、一番の問題とは、「王」に抵抗する「人」のことでは無いだろう。キリスト教では、もともと「神」に支配される「人」があったのが、「王」に支配されるようになったので、両者の間に「抵抗」が生まれたと言う解釈は変である。キリスト教では絶対にこの「神」に逆らう「人」はいない。
それは、逆らえば「人」ではなく「悪魔」にされてしまうからである。問題は、「悪魔にされた人」がどう「神」に「抵抗」したかである。そこを見て見たいし、そこに本当のキリスト教における「抵抗」が有るだろう。

それから、信仰に服従しない人間を「悪魔」呼ばわりし、そうすることで殺害を認めるわけだが、これは自然権である人間の生命の尊厳を認めてない宗教だということだ。異教徒やサタンは悪魔であってキリスト教では人間でない悪魔にされてしまう。

ここで本当ならそういう「人」である自分を悪魔にして地獄へ突き落とす「神」に対し、「抵抗権」を発動させなければならないのである。「悪魔」の「神」に対する「抵抗」こそがキリスト教らしい「抵抗権」の源泉だとも思える。

しかしキリスト教では「神」の下に「人」がいるので、「神」と「人」は平等ではないし、「神」が「人」の下には来ないのである。ここにキリスト教の不平等の思想がある。現在でも前の仏大統領のようにキリスト教文明が世界の他の文明の頂点にあるなどとしてイスラム文明など他文明を蔑視したりする者が多い。これはキリスト教の神を頂点とする差別主義からきている。宮崎氏の見方はこの点において正しい。キリスト教の人権や「抵抗権」といってもその差別主義の域を出ていないのである。

キリスト教徒は誰もキリストに「抵抗」してこなかった。これを成し得て始めてキリスト教における「抵抗権」の価値が出てくるというものだろう。「王」への「抵抗」などは名ばかりのものだ。いろいろと人権の「名札をぶら下げさせてみても」「実義」が無いから、「有名無実」で、なんとなくチンドン屋風体なのである。今もキリスト教徒が異教徒を殺害するし、しばしばイスラム教徒を差別したりするのである。

【参考記事】
http://www.chugainippoh.co.jp/ruikotu/ruikotu11-01-01.html

日本におけるキリスト教人権思想の影響と課題

青山学院大准教授 森島豊氏