2016年7月20日水曜日

ベートーベンの第九「合唱付き」 「歓喜」の歌とは思想的テロ行為ではないのか?パリ祭の花火大会で思ったこと


ニースで84人が殺害されたトラック殺戮
テロの起きた同時刻、パリのエッフェル
塔下で、ベートーベンの第九「合唱付き」
と、フランス国歌「ラマルセーエーズ」が
7月14日の花火大会で、合唱されていた。
「歓喜」というのはある共同体の「歓喜」のことで、そこに「対内結束と対外排斥の同時性」を内包する「差別」の力や「犠牲」の力が、「歓喜」と共時にセットされて働いている。そのようなコミュニョンの「歓喜」なのだと思います。「歓喜」には二元論の低い思想では「犠牲」というものが要求されている。このベートーベンの第九「合唱付き」の歌詞にもそういう個所がある。自分たちの思想が受け入れられないのなら、つまり神に服従する「歓喜」を拒絶するならば、我々のところから出て行けばよいという意味のことを言っている。そういう事で言えばヨーロッパ共同体やキリスト教国家内の賛歌としては好都合なのかもしれない。応援団の歌としては良いのかも知れないということです。しかし2015年夏をピークとして今も続いている移民・難民たちの、海路・陸路を問わないあらゆる手段を使っての命を賭しての欧州への移動は、共同体をユートピアのように憧れて瀕死の不幸の姿を私たちに見せつけた。同じ人間として私たちはこういう悲惨な状況が現代に存在していることに恥ずかしく肩身の狭い思いをしたのです。


ヨーロッパのヒューマニズムからするとこれは手をこまねいて放任しておけない事であった。ユートピアが人の不幸の上にしか存在していないことがわかったとしても、ドイツもフランスもそのジレンマの中で、ヨーロッパのヒューマニズムと民主主義を実行し守ろうとして来ている。しかし、ジレンマあるユートピアの難民受け入れの苦悩を分け合う道を嫌って、英国は欧州離脱を選んだのだと思います。

そのエゴイズムはフランス内部の一部の国民にもあって、イスラム教徒をテロリスト扱いしたいらしく、テロと戦うフランス政府に嘲笑の揶揄を飛ばしたりする。こういう極右思想の人々が一方で台頭してきている。それを喜んで「みんな」がそうであるかのように取材し報道するメディアがフランスにも日本にもあるわけです。

ベートーベンの第九「合唱付き」での、「みんな」とは、ヨーロッパ各国の国民であり、アフリカなどからヨーロッパをめざしてゴムボートで集団で地中海を渡ってくる難民のことではないのです。そこに、「みんな」でない人々が差別されて存在しているのです。さらに、移民・難民といったところで、中東・アフリカからの希望者の総てを全員、ヨーロッパは受け入れることはできないし、しないのです。

ですから見せかけのヒューマニズムと言えば失礼になるが、実際的には「みんな」は「みんな」ではなく、選民であるのです。そういう思想を容認し支持しているのが、ベートーベンの第九「合唱付き」だということです。このシラーの詩でもベートーベンの詩に於いても、「みんな」は自分たちコミュニティのことであって、全世界の「みんな」ではないのです。全世界の「みんな」の中には敵がいることを想定した歌であることは、フランス国歌の場合でも、かなり顕著で闘争的な歌なのです。

「乞食が貴族と同じようになる」とは、平等を言っているのではなくて、「乞食」と「貴族」が同居する世界を今の世界のように、承認し支持しているということなのです。ですから「乞食」が「貴族」のようにたとえなるとしても、その「乞食」の「みんな」が「貴族」になるのではないのです。そこに不平等な世界を承認し支持している仕掛けであり、他方からすると限界があるのだと思います。

「儡人」が「神」にはならないし、「神」は「悪魔」であることを絶対に受け入れない思想だからです。フランスのリヨン大司教区バルバラン枢機卿の例もあるように、司祭らのぺドフィル(未成年者への性愛犯罪)行為を長年に渡り知りながら、司祭の犯罪を隠す手助けをしていた。これは重大な人権擁護を怠ったもので、青少年たちの信仰に背いた背徳でもあるのです。その意味はいろいろあるでしょうが、キリスト教では「みんな」を幸せにできないという思想があるのであり、一部は「犠牲」になっても良いとする考えがあるからでしょう。

ヨーロッパは「貴族」でもなく、アフリカ・中東の人々は「乞食」ではないのです。この人達を邪魔だからと言って、ヨーロッパなのだからと言って差別してはならないし、テロリストに仕立て上げて排除してはならない。

そういう人権思想の薄弱な人種差別的怨念を焚きつける歌詞は、ヨーロッパにもフランスにもふさわしくないと思ったわけです。7月14日のパリでの花火大会の前に、それに先立ちこのベートーベンの第九「合唱付き」とフランス国家「ラ・マルセーエーズ」がパリのエッフェル塔のあるシャンド・マルス広場で歌われました。この時の思いを述べました。こういうことを歌の歌詞を知らずに歌うのは普通なのでしょうが、避けるべきだと思ったのです。テロリストを批判するだけでなく、「みんな」が仲良く暮らすというフランス共和国の政教分離(ライシテ)の精神にも反する思想的テロ行為を、フランス人が「みんな」で合唱しているのであって、これは危険だと思ったのです。(パリ=飛田正夫 日本時間2016/07/20午前2時20分)(文字数 ;2081)

【関連記事】 

ニースのテロは 「パリ祭」で反イスラム的にキリスト教文明を驕って謳歌したから