2017年11月1日水曜日

方便の教えでは人も国も救えない 創価学会の教えは無間火宅を導く権教

例えば嘘も方便ということがあるのです。子供相手に大人の論理が通じない場合は大人は譬えをつかったり逸話をだしたり、最後には嘘をついて見せる。それが釈尊の教えなのです。遊び戯れて夢中になっている為に自分がいる場所が危険な所だというのに気が付かない。そこで釈尊は法華経比喩品の「三車火宅の譬」を出すわけです。子どもの喜びそうな車、羊・鹿・牛の三つを門外に於いて子供を火事になっている家の中から誘いだすのです。しかしこれは方便であって、釈尊は大白牛車(だいびゃくごしゃ)というのを与えたかったのです。しかし子どもたちにそれを直接与えても関心を示さずに理解せずに返ってこれを批判し捨て去ってしまうことが釈尊にはわかっていたから「次第梯墱」(しだいていとう)の階段を登らせるのだが最後は無い法門で導いたのです。このように釈尊の仏教では相手の機根の高低に合わせて方便の教えを説くのです。ですから人間の機情の異なりの数ほど釈尊の様々な教えが出てくることにもなるわけです。しかしそれらは機縁に従ったその場その場での方便の仮の教えでしかなく、絶えず迷いの火宅は絶え間なく次から次へと起こって来るのです。釈尊はそうした人間の迷いの問題を自分で解決できる大白牛車の教えは、つまり「法華経」文底の教えは説かないのです。迷いの子供達を一応は火宅から救うのですが、また別の火宅に入ってしまうわけです。

例えば、創価学会の池田大作のように方便巧みにして世間の卑近な例も縦横無尽に擦り込んで説明する人は案外に多いのです。しかしこの大白牛車というのを最終的にはこれら方便権説の論者というのは説けないのです。一つにはその方便権説の論者にはそれを説く資格というか権利が無い。これはいってみれば口先だけでは説けないということなのです。つまり教えに鍵がかかっているからです。其の鍵というのはこれを説くと日蓮大聖人が指摘された説法者に三類の強敵という国家権力からの弾圧が遭遇するという意味です。
それを受けてないで方便だけなら一応は言えるのです。釈尊もそのことを理解していたので其れなりの身から血をい出すような法難はあったのです。

本当の論者というのは最高真実のものを出し惜しみなく誰に対してでも手加減なく、また時機を選ばずして出し与える者のことです。それが火宅の中に忘れ遊び戯れている子供達を救う日蓮大聖人の救済論となって、釈迦仏教との大きな相違を示すことになっていると拝しています。ですから、釈尊自身はブレてないとしても相手の衆生が実に様々にブレているわけで、それに合わせてあれこれ教えを説くものだから、よく理解できない者には傍目には何でこんなにも教えは多く救いは少ないのかと疑いが出てくるのです。

例えば池田大作全集は100巻を越えているのではないかと思うのですが、大先生のスピーチ集は家の床が抜けるほど出版されているのです。しかしこれも化他方便の教えでしかなく、最後は何も説いていないのです。説いたのは相手の心に随った教えで、所詮は相手の心の迷いや悩みの世界を説いたに過ぎなくこれを出ないのです。これは池田の教えに導かれてまた別の火宅へと迷いの世界の中に返って深く人々を閉じ込めてしまうことになるのです。この行き着く先が2011年3月11日の福島原発事故の火宅の世界であり、今の戦争の危険へと向かう日本の進路である。これが安倍晋三首相と組んだ「創価学会・公明党」の教えからきているということなのです。池田大作の方便権者の呪縛の中で苦しみ続ける無間地獄の紅蓮の焔が日本に準備されているということなのです。

反戦・反核・世界平和の創価学会の教えは池田の指導であった。また原爆ではなくて平和利用ならば原子力開発も許せるとしたのも池田大作の指導であった。その為に「公明党」は安倍の原発開発を支持してしまったのです。もしこの時に池田の前言を「公明党」が守り通していたのならば福島原発のアトムの悲劇は無かったのです。

【参考記事】
安倍晋三の祖父・岸信介と創価学会の戸田城聖が友人で 政教一致の儀式に安倍が代行
https://franettese.blogspot.fr/2017/10/blog-post_63.html