2017年10月7日土曜日

善導「千中無一」、法然「捨閉閣抛」、池田「難しい」が「立ち往生」日本混乱の元凶

念仏の人はこの「往生」という言葉が好きなようで、「法華経」による「成仏」を嫌うようである。仏法の方から見てゆくとこの念仏の「往生」というのは「立ち往生」のことではないかと思えるところがある。ああでもないこうでもないと念仏は右に左に立ち回って先に進めない姿で無限の迷いの中を徘徊する人々が実に多いのではないかと考えるのだ。創価学会は法然流の読み筋で、つまり経を忘れて衆生の機根に依拠して邪義を立てたのである。「御書は素晴らしいが、難しくて我々には理解が困難だ」それよりは、これを読みに読み込んで理解し卑近な例も取り入れて易しく解説した池田大作先生のスピーチ集があるので、これを先ずは読んで理解してから、難しい御書を読んだら簡単に御書がわかるのだとして、創価学会の人々を騙したのである。それが因果でいまだに創価学会・公明党の頭(頸)が定まらないで「右往左往」しているのはこれは「念仏往生」の姿であって、日蓮正宗の頸を切った時に自分の蝦蟇ガエルの頸を失ってしまったからである。


日本の混乱の元凶は、現代の法然先生が日蓮大聖人の「立正安国論」を解し釈し誤って、「日蓮大聖人の書かれた御文(御書)は素晴らしい」が、「難しい。古文・漢文で書かれていて、我々凡人には理解し難い」と教えを高く上げ、それを理解する信者の機情・機根を下げに下げることによって、「御書」を遠ざけ捨てさせたのであった。これにより先ずは「四海静謐」の安定が無かったならば寺院や家庭の御本尊も焼けてしまい、信仰などと言っている場合ではないのだ。世界平和が先ず必要なのだと言って、宗教の正邪を糾す日蓮大聖人の立場を捨て去ってしまった。これで法然流の世界平和論に創価学会は堕ちてしまったのであった。その為に、「創価学会・公明党」が世界平和を叫べば叫ぶほど念仏法然の「立ち往生」と「無間地獄」の形相が社会を覆うのは当然であると考えるわけだ。

それは一つには、念仏がまた念仏化した創価学会が、正しい日蓮大聖人の仏教である日蓮正宗の鶴の頸を切って、これを否定し且つ釈尊の正しい文底仏法の教えを否定している為なのである。つまり善導の「千中無一」や、法然の「選択集」での「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)、池田大作の創価学会のいう「御書は難しい」という批判というのは、文底「法華経」での「成仏」を否定して、池田のスピーチ集での仏法解説による「理解」での「創価王国」や、西方十万億土の阿弥陀仏のいる極楽浄土への「往生」を願っているからなのである。

念仏の教えは、「法華経」の「一切衆生皆成成仏」の教えに背いている。ここの信者らは自分が、阿弥陀仏や池田先生の教えによってでしか救われない「愚人」であることを自覚すること、つまり「悪人正機」であると深信(深心)する者だけが念仏によって救済されるとするわけだ。「法華経」では救われないと主張して、念仏の「三部経」や池田の「スピーチ集」を勧めて多くの人々の耳目を曇らせて誤魔化している。 

念仏の信者は仏教の教えを否定して、阿弥陀仏の浄土に「往生」することを望んでいる。仏教の「成仏」を願ってないわけで、「法華経」によって救われることを極度に嫌いこれを否定している。
「千中無一」、「捨閉閣抛」を唱える善導・法然らは、その詞(ことば)によって既に「法華誹謗」の罪を犯しているわけだ。即ちこのことは阿弥陀仏の本願にも違反しているわけだ。つまり阿弥陀仏は、その「法華誹謗」の者だけは自分は救わないという誓願をしている為である。

彼等念仏の信仰者というのは、彼等の信仰の対象とする阿弥陀仏の誓願にあるように、既に嫌い捨て果てられている。道綽、善導、法然、親鸞、そして念仏に影響されて邪義を現代に立てた池田・創価学会等は、その念仏信者の信徒たちに対しては、このことを教え知らせていないのです。彼等は念仏者であってこれを話したがらないで隠し、騙し続けるわけです。

親鸞の場合でもやはり善導の解釈に依っている所が多く、弥陀の本願に悪人の「機根」が適うという「悪人正機」の主張を出している。しかしその阿弥陀如来が法蔵比丘として過去世で修行に励んでいた時に誓った48種の誓願があるわけで、その中に、もし自分が仏になって浄土に生まれ、自分と同じ浄土に他の衆生が生まれたいと願っても、衆生側が「五逆罪と誹謗正法と一闡提(いっせんだい)謗法人は浄土には入れない」と宣言しているのです。つまり阿弥陀仏の本願からすると道綽、善導、法然、親鸞、らはすべて阿弥陀如来の教えに背いているだけでなくて、釈尊の仏教である正法を批判した法華誹謗の邪義邪説を造作したのであって、これらの道綽、善導、法然、親鸞の念仏こそが実は「千中無一」なのであるといえる。池田の場合には日蓮大聖人の三大秘法を否定したことでその罪は更に深いのである。

だからこそ、念仏者は成仏ができず、阿弥陀如来の浄土にさえも受け入れられないで、「右往左往」して「立ち往生」の「無限地獄」しかできない理由がここにあるのではないかと思うのです。

またよく見ると「法蔵の願い」というのは、この「悪機の衆生は救わない」ということなのです。それは阿弥陀の宣言である「唯五逆罪と誹謗正とを除く」云々ということです。しかしながら、この阿弥陀如来に放り捨てられ擯出(ひんずい)された衆生である「謗法・五逆の悪人」「悪機の衆生」を、総て法華一乗の機の中に入れて釈迦如来が宝海梵志(ほうかいぼんじ)の時に、これ等を救うと宣言して総て救い取ったということなのです。念仏はこれを隠すのです。これは創価学会の池田大作が「スピーチ集」で日蓮大聖人の「御書」を隠し、創価が作る偽本尊で大石寺の「三大秘法の大御本尊」を隠すのと相似しているわけです。