2016年12月4日日曜日

「諸経と法華経と難易の事」日蓮大聖人の『御書』をパリで拝す

「諸経と法華経と難易の事」 は日蓮大聖人の「御書」(平成新編1467頁)にある。富木殿への御返事で内容は、仏教が日本に伝わって700余年経っていて、今に、「法華経」が随自意の経であり、諸経が随他意の経であるという認識が隠され廃れてから400年がたっている。弘法・慈覚・智証らは九界の衆生の意楽(いぎょう)に随って説く所の経々に依拠して、従って衆生の心を説く故に易信易解の経を解りやすく我々の求めに合致していると褒め上げて、人々の元本の無明を其のまま正当化させてしまった。「法華経」はそのような衆生の異なりによって法を説くのではなくて、仏の心をそのまま説く随自意の教であるために難信難解なのであるが、この「法華経」は人を選んで教えを説くのではなく、総て平等に最高の法を説くのである。弘法・慈覚・智証らの広めた教えは仏教を破壊し珠を瓦礫に換えてしまったわけだ。


最近の例だと、池田大作が日蓮大聖人の御書は難しいと話し、御書は素晴らしいのだが理解するのは我々凡人には古文や漢文でもあり困難である。この難しいのを読みに読み込んで、現代の易しい言葉で卑近な例も取り入れて、みなさんの言葉でわかりやすく説いたのが現代の御書である池田先生のスピーチ集なのです。これを先ず読んで早く理解されてから難しい御書を読むと良く理解が行く。と、このように創価学会員は騙されて、結局は日蓮大聖人の御書は読まずにその池田の解説書や通解文を読んでわかったような気になって、騙されてきたのであった。つまり池田の解説書やスピーチ集は衆生の意楽に随って説いた弘法・慈覚・智証らの随他意の教えと同じであって、だから理解し易いということなのだが、所詮はそれは衆生の迷いの域を出ないのである。だから師弟共に苦海に沈むというのである。