2016年8月12日金曜日

法華経文底の仏法は キリスト教や創価学会の「未顕真実」の教えに同じ繋げられない

 本地垂迹論というのは大きな体系に小さな体系を収納するパラダイムによる包括システムのようなものですが、これも本当には繋がらなかったので失敗したのだと私は見ているのです。その他にも失敗したのでは随方毘尼論や、和光同塵論、そして四悉檀があります。こういうのを持ち出すことが仏教を理解していなかったということなのですが、日本の創価学会や池田大作などに魂を抜かれた僧侶が、これを持ち出してきてフランスでもやっていたのです。

随方毘尼論、和光同塵論、四悉檀など、いずれも仏教の真髄である「法華経」との愛称が悪いのです。それはどうしてかというと、釈迦一代の全ての教えで、最終的に二つに分けると、一応は「四十余年未顕真実」の経経と「法華経」ということになるのです。しかし「四十余年未顕真実」の経経というのは、これはキリスト教思想などとの親和性が非常に強くて教えも相似していて、「繋がり」やすいのです。そのために、今は欧米のキリスト教の宗教家や宗教学者が興味を示してきているのです。欧米の仏教趣味の多くは之なのです。

しかし、「法華経」というのは当然のこと髄他意の法である「四十余年未顕真実」の経経とは合い性が悪いのです。それは教えに天地の相違があるからなのです。ですからキリスト教とももちろんいろいろな意味において、「繋がらない」のです。私が「繋がる」、「繋がらない」という場合の用法は、両者を並べて「同じる」とか「擦り合わせ」をするとかいう次元での意味でです。

しかし、これらの教えは共に、釈尊一人の法門でもあるのです。一人の言葉にその前後で相違があるのは可笑しいということになるのです。それで仏教というのが良くわからなくなっていることもあるのですが、釈尊は何故そのような前後で異なる様々な矛盾するような教えを説いたのかと言うと、それは各地の各階層や個人的な特殊性を鑑みて、其のつど其のつど、其の人々の理解の状況に合わせて仏教というものを説いたからなのです。

これを髄他意の法というのです。ですからこの髄他意の法というのは、誰でもわかり、理解が早いわけです。が、何か新しい悟りがあるわけではないのです。なぜならば、所詮は髄他意の法はその人の境遇を説いたもので、そこを出るものではないからなのです。それは、問いすなわち答えと言うことにもなるのだと思います。

そこで、法華経を説く以前までは釈尊の教えというのはすべては髄他意の法ですから、当然のこと質問者の納得し満足する答えを準備するわけです。之は大変なことなのです。まず質問者が何を望んでいるのかを射抜けないと良い回答ができないのです。そのために知見のある菩薩の眼識が要求されたのです。とてもではないが凡人の私などのできることではなかったのです。ある意味では、昔しの偉い聖人・菩薩ならばできる話しなのです。ところが、今は末法でもあり、そんな人間の機情を見極める聖人君子のような人はそう簡単には見つからないのです。ですから良い回答ができないということもあるでしょう。しかし問題は別のところにもっと重大なものがあるのです。

それは、「四十余年未顕真実」の経経には、本当の問題解決の回答がないということなのです。そこには本当の意味での解決がないのです。

それは一つには真実の経をすぐに出すと、人々がそれを嫌って仏教の教えを捨ててしまい。かえって苦しむことになるという仏側からのある意味の慈愛によるところもあるのです。しかし一時的な仮の救済では衆生の本当の悩みや苦しみは救ったことにならないのです。釈尊が法華経を説いたのはそういう衆生の心を説いたのではなくて、仏の心を説いたのですから。

ですから貧(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)という、貧(どん)、瞋(じん)、癡(ち)の三毒の煩悩に侵されている衆生に対し、この仏の髄自意である法華経を聞くと、そんなものは自分はかって聞いたことが無いと我見して言うのです。耳目を閉じるだけでなく、信じられないと批判してくるわけです。

しかも法華経も三種の法華経があるのです。これもどうしてなのかを考えますと、やはり衆生の側の迷いと疑いが非常に深いのであって、つまり貧、瞋、癡の三毒に染まっているということなのでしょう。
この貧、瞋、癡の三毒の無明の闇を払うのが、三種の法華経の第三番目の日蓮大聖人の文底法華経の題目ということになるのです。これを第三法門ともいうのですが、要するに仏観の違いがこの釈尊の法華経、天台の一念三千の法華経、そして第三法門の日蓮大聖人の法華経文底という読みの違いになっているのだと思います。

仏の命というのが、経典の教えが深ければ深いほど、仏の命の長さは長遠になっていき、概念も拡大していくのです。小乗と大乗の違いはそういうところににもあるようです。

釈尊がこの世で生まれて、この世で修行してこの世で悟りを開きこの世で涅槃を現じたという始成正覚の釈尊観が、天台で大きく変わるのです。しかしながら日蓮大聖人の顕わされた仏観は、法華経の文底ですがこれは法華経の迹門と本門とで其の間に既に天地の差があるのですが、日蓮大聖人では時間論の相対性と絶対性が因果論の上に展開されてくるので、勿論のこと人間生命の「因果異時」ではなく「因果倶時」論が展開され無始無終という法華経の迹門と本門に対しても竹膜を隔つという釈迦の法華経とは別な思想が出てくるのだと見ています。そういう思想からの釈尊観の継承と乗り越えがなされているのだと拝しているのです。

そういうところに仏や人間や動物界、植物界、非情界を分断する世界観ではない、十界離断ではない十界倶具の生命観が初めて実現してくることになるわけです。この竜女の回転の成仏が説かれることで、男女の平等が始めて仏教でもって確立した。この法華経の迹門の成仏観でさえ女性は変女男子であったのです。つまり、一度男性に生まれ変わってからしか成仏はできなかったので、即身成仏ではなかったのです。

ともあれ、女性の成仏が釈尊の経典にあるわけです。しかしこの髄自意の法華経が説かれることによって、初めて女性の成仏が許される。それ以前は、ほとんど女性は嫌われていたわけで、キリスト教などでは女性は男の肩骨から作られた従属物のような感じがします。イスラム教は女性を男性と平等に今も扱っていないので信仰上の教えがあるのでしょう。

ですから、キリスト教の教えやイスラム教や禅宗や天台宗などの教えを、仏教の最高峰の教えと「繋ぐ」ことはできないということなのです。そうするのではなくて、それらの誤った小法を捨てて、最高峰の日蓮大聖人の顕わされた法華経を信仰することが、本当の意味でのよりよき状態にすることができるのだと思います。ここを理解されれば、、日蓮正宗というのは日蓮大聖人の文底法華経を信仰しているのであって、日蓮宗が釈尊を仏としているのとは全然別なものだということです。

創価学会の場合にもその布教の仕方や本尊観に釈迦仏法に落ちたところがあり、何よりも池田大作の「宇宙根源の大法」に「繋がる」「小我」という考えは日蓮大聖人の大御本尊の背後に「宇宙根源の大法」があって、これを視覚化し具象化したのが板御本尊だという誤った考えがあり、これならば別の具象化も可能になるわけで、じさい創価学会が偽本尊を作くれたのは、このような「宇宙根源の大法」に「繋がる」という池田の考えが下敷きになっていたからだと考えられるのだ。

日蓮正宗の大御本尊を拝まなくても、この「宇宙根源の大法」に「繋がる」ことで、独自に本尊を作れるのだと我見した。この事は、創価学会の本尊が、「宇宙根源の大法」になってしまったことを示している。これは釈迦や日蓮大聖人の仏法を尊厳しているのではなくて、否定し排除しているということなのである。

「繋げる」とか「繋がる」ということが問題になるのは、分離した状況を前提にするからです。宗教なりの教えが高くなってゆくと、この差別が無くなって平等になっていくのです。様々な教えの違いには、女性は救えるのか悪人だけを救うのか、二乗は嫌われる教えなのかといった、宗教や教えによった救済力の違いがあり、その原因は法門や教えの内容によるわけです。

ですから教えが低いと差別が説かれているために、「繋げる」とか「繋がる」ということが問題になるのです。教えが高い経典を所持していれば、差別が無く平等大慧なので分断がないために、新たに何かに「繋がったり」、何かを「繋げる」必要がないのです。

創価学会の場合でいれば、彼等の教義が日蓮大聖人の三大秘法の仏法を保つ日蓮正宗を離れた為に、それに代わる、「宇宙根源の法」の邪説を持ち出す必要があったとも言えるのです。それにしがみついて、そこに「繋がろう」とする教えになるわけです。何かが不足し何かが欠けている場合には、こういう「繋がり」の法門を造作するのです。